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What I have been learning.

最近、教えられていることを綴っています。
取材旅行
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     あるキリスト教の出版社からセル・セミナーの取材依頼を受けた。少し悩んだけれど、セルについて個人的に理解を深めたいとの願いもあったので、引き受けることにした。会場は、南紀キリスト教会であった。地図で場所を確認すると、なんと本州の最南端、和歌山県串本だった。車で片道4時間。旅のパートナーにNEWHOPEのS副牧師に声をかけた。朝9時、島本町を出発し、白浜のレストランで昼食を取る予定でノンストップで車を走らせた。渋滞もなく、お昼前にお店に到着。お店に入ろうとすると、扉が開かない。定休日でもないのにと思いながら、ガラスドア越しに店内を覗いても人気はなかった。残念、居酒屋だった。夕方にならないとオープンしない。目当てのお店もないので、目的地に向かって走ることにした。

     志原海岸の道の駅に立ち寄った。お土産屋さんの二階がレストランだった。お腹も空いてきたので、そのお店でお昼をいただくことにした。店内からは広大な海岸が見えた。台風の接近で大波が押し寄せてきて、激しく岩に打ちつけ、飛び散る飛沫が気持ちを高ぶらせる。やっぱり、山より海が好きなんだと思った。注文したのはマグロ刺身定食。刺身のマグロの大きさが1.5倍あった。味も新鮮でおいしかった。これだけで、4時間のドライブが報われたように思えるほどだった。

     潮岬を一周して、会場の教会に到着。セミナーは夜の9時に終わり、宿泊先のホテルにチェックインした。露天風呂でS副牧師といろいろと話した。風が強く吹いていて、木々が激しく揺れている。

     2日目、朝9時セミナー開始。昼食は弁当を注文しないで、串本市内の回転寿司に出かけた。港が近いせいか具が大きい。魚があまり好きではないのに、昨日から魚ばかり食べている。セミナーは昼から夕方6時まで続く。途中、S副牧師を最寄の駅まで送る。夜はホテルでひとり寂しくカップラーメン。

     3日目、朝からセミナーに出席。セミナーは明日の夕方まで続くが、予定があるのでお昼に会場を発った。帰り道、同じレストランに立ち寄り、同じ定食を食べた。ワンパターンが好きなんです。回転寿司でも同じものばかりを食べていた。

     セミナーは充実していて、セルについて理解が深まった。すごくリフレッシュした3日間となった。しかし、これで終わったわけでない。7000文字の記事を書かなければならない。
    | newlifeblog | - | 18:29 | - | - | - | - |
    1デナリ 
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       「ぶどう園」の譬え話から感謝の本質について学んだ。ぶどうの収穫時期になると、ぶどう園の主人は臨時で労働者を雇った。雨季の前にぶどうを収穫するためだ。譬え話に登場する主人も朝早くに市場へと出かけて行った。そして、幾人かの者たちと一日一デナリの契約を交わした。ここまでなら、日常の光景だが、この主人は9時、12時、3時にも市場へと出かけて行き、労働者たちを雇った。

       極めつけは、夕方の5時になったとき、再び、主人は市場へと出かけて行き、仕事が無く、時間潰しをしていた者たちを雇い、ぶどう園へ連れて行った。6時になって仕事が終わったとき、主人は監督に、「労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい」と命じた。最初に来た者たちは最後に来た者たちよりも後回しにされたことを不当な扱いを受けたと不満を覚えたはずだ。列の割り込みに対する憤りは、その行為自体の重さに比較しても大きい。後の者が先になることに対して基本的な権利が踏みにじられたような屈辱を覚えてしまう。

      「 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。 最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。」(マタイ 20:9、10

       最初に来た者たちは最後の来た者たち、一時間しか働かなかった者たちが一日の賃金に相当する一デナリを受け取ったのを見たとき、受け取り過ぎていると不満を抱いた。その不満は、「もっと多くもらえるだろう」との過剰な期待によって一時的に解消された。しかし、期待して受け取った賃金は最後に来た者たちと同じ一デナリであった。キリスト者のつまづきは、過剰の期待が叶わないことにある。このぶどう園の主人は寛大なひとであったが、過剰な期待には応えなかった。父なる神は寛大なお方であるけれども、私たちの過剰な期待にはお応えにならない。

       「そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』」(マタイ 20:11,12)

       最初に来た者たちは主人が朝早くに声をかけてくださり、朝早くから夕方まで働くことができたことを有難く思っていた。直前まで、主人に感謝の言葉を述べようと心から思っていた。それなのに、主人から不当な扱いを受けたと非難し、文句を言ったのだ。一瞬で感謝が不平不満に変わってしまった。主人から搾取されたと訴えた。「私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです」と、苦しみが水増しされている。苦しみの記憶は上書きされる。不満によって苦しみが増幅し、その苦しみに相当する支払い(償い)を要求する。これは、過剰請求だ。

       「しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。」(マタイ20:13、14)

       主人は文句を言う者たちに、「私はあなたに何も不当なことはしていない」と語った。感謝の心を取り戻すために必要不可欠なことは不当な扱いを受けたとの怒りを正しく扱わなければならない。この怒りが扱われない限り、感謝は生まれない。父なる神は誰ひとりとして不当な扱いは決してなさらない。この確信が感謝の心の土台となる。

       文句を言う者たちに主人は、「自分の分を取って帰りなさい」と命じた。自分の分をわきまえることで感謝は心に溢れてくる。父なる神は私たちの労苦を無駄にはせず、必ず報いてくださる。人生の労苦は必ず報われる。「自分の分」を遜ってわきまえることで敬虔さが培われる。「自分の分」とはOUTPUT(自分が犠牲にしたもの)とINPUT(受けるもの)を同じにすること。苦しみを水増ししないこと。

      「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」(1テモテ6:6)
       
      | newlifeblog | - | 17:07 | - | - | - | - |
      夏の読書
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         夏の読書というわけではないが、同時進行的に読んでいる三冊。

        「After You Believe」(N.T Wright)
        「The End of Memory」(Miroslav Volf)
        「The One-Life Solution」(Henry Cloud)

         エール大学の教授Miroslavの「The End of Memory」は副題に「Remembering Rightly in a Violent World」とあるように、傷つきやすい社会で健全に生きるためには過去の出来事を正しく思い出すことが必要であると説いている。彼自身がユーゴスラビアで拷問のような尋問を受けた経験があり、尋問を指揮した人物の顔や声、会話を繰り返し思い出しては、過去の辛い記憶に引き戻された。赦しには「忘れること」が含まれている。忘れるとは記憶から消去することではなく、思いの最前列に持ち出さないこと、思い巡らさないこと。しかし、多くのひとは辛かった出来事を思いの中で繰り返し再生し続けている。エンドレスのテープのように。

         ききんの年の来る前に、ヨセフにふたりの子どもが生まれた。これらはオンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテが産んだのである。ヨセフは長子をマナセと名づけた。「神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせた。」からである。(創41:50,51)

         
         兄たちから嫉妬されて、エジプトへ奴隷として売り飛ばされたヨセフが幾多の苦難を経て、エジプトの王に仕える立場を得た。そして、エジプトの祭司ポティ・フェラの娘アセナテを妻として迎え入れ、長男を授かった。ヨセフは長男にマナセと名づけた。それは、「神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせた」からだ。私たちは自分の努力で辛かった出来事を忘れることはできない。それは、神ご自身の御業である。神の恵みが辛く、悲しい、あるいは怒りに身を震わせるような出来事を忘れさせてくださる。だから、自分で「再生」のボタンを押してはいけない。

         本当に久しぶりのブログの更新となった。 
        | newlifeblog | - | 21:01 | - | - | - | - |
        Dallas Willard Died
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          「心の刷新を求めて」の著者ダラス・ウィラード氏が癌との闘病の末、 5月8日未明、召された。享年77歳。悲報に接し、残念でならない。 ウィラード氏の存在を知った経緯は、Willow Creek教会の元教育担当牧師であったJohn Ortbergがウィラード氏を人生の師を仰いでいることを偶然耳にした。(偶然=意図がなかったとう意味で)有名な聖書教師として知られていたOrtbergが師として仰ぐ人物について関心を持った。最初に手にした本こそが、「The Renovation of the Heart」(心の刷新を求めて)だった。そして、出版についての知識も経験もお金も無いのに、どうしてか分からないけれど、その本を翻訳出版することを決意した。版権の取得、出版社あめんどうのOさん、翻訳者のKさん、Nさんとの出会い、ひとつひとつが整えられ、翻訳出版に至った。ウィラード氏の本が一冊だけであっても、日本語に翻訳されたことがとても嬉しい。

           キリスト教雑誌に「心の刷新を求めて」を下地にして、霊的形成について連載記事を書いている。イエスの愛についての一年の連載が終わったとき、一年の延長を打診された。ウィラードの思想を紹介することもできると考え、引き受けた。今、連載は1年半続いている。「心の刷新を求めて」を学び直せる機会を与えてくださった編集長のTさんには心から感謝している。最後に彼らしい言葉を引用したい。

           ” 地上で御心が栄えるか否かは、神の民がどれだけよく考えるかにかかっています。”
          | newlifeblog | - | 07:54 | - | - | - | - |
          N.T. Wright
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             21世紀、最も影響力のある歴史学者&聖書学者のN.T.Wrightの「How God Became King」を読み終えた。説得力のある文章に感銘した。サブタイトルにあるように、福音書が伝えようとしたメッセージをいかに聞き漏らしてきたのか、福音理解が個人の救いに極端なまでに焦点が当たられてきたのかとの鋭い指摘に唸りぱっなしだった。ダラス・ウィラードの本と同様、数ページ読んでは思索しなければならなかったので、読み終えるのに半年以上かかってしまった。次に読みたい本があるので、最後の方はちょっと端折り気味になってしまった。

             
             
              
            " I think, be uncontroversial to propose that the great majority of people in today's church who consider themselves to be firmly creedal Christians, affirming the Trinity, the incarnation, the atonement, the resurrection, the Holy Spirit, and the second coming, have never imagined for one moment that the gosple are telling the story of how God became king or that the rescuing sovereignty God is already a reality in the world through the public career, death, and resurrection of Jesus."

             「今日の教会において自らを信条的なキリスト者と自負する大半の人々は、三位一体、受肉、贖罪、復活、聖霊、再臨の教義を固く信じています。しかし、彼らは福音書が神が王となられたこと、イエスの公生涯、死と復活によって、神ご自身が統治者となられた現実を伝えていることを想像したこともありません。」(個人的な超訳)

             
             本書の最終章では、使徒信条が旧約聖書のメッセージを割愛していることを指摘し、天地創造から、イエスの十字架まで飛躍してしまい、旧約聖書に示された、イエスが王となられるとのメッセージが抜け落ちてしまっている点を強く憂慮している。この点に心から同意した。

             約10年間、旧約聖書からの講解メッセージを継続している。今現在、ネヘミヤ記を学んでいる。なぜなら、旧約の視点から新約を学ばないと、メッセージの本質が見えないと思うからだ。

             Wrightの主張には賛否両論があることを踏まえた上で、教会がイスラエルの立場を受け継いだと考える置換神学でもなく、神の救いの最終計画はイスラエルという国に委託されていると考えるディスペンセーション神学でもなく、神の御子が王となられたという現実をどう受け止めていくのかが大切なことのように思う。Wrightの主張は、神の御国が地上に来ることこそが救いの完成である。ただ、天国へ行くことではない。

             現在、敬愛するU先生がライトの著書を翻訳中なので、出版されるのを心待ちにしている。
            | newlifeblog | - | 09:28 | - | - | - | - |
            北海道 1
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               格安航空会社PEACHを利用して、三男とふたりで北海道へ出かけた。片道3-4千円という破格な値段に少し心配したが、多少の不便を強いられるだけだった。長時間のフライトはきついが、二時間程度なら問題は全くなし。北海道は予想以上に寒かった。札幌駅に降り立ったとき、あまりの寒さに驚いた。後で聞くと、今年の北海道の寒さは例年以上だそうだ。タクシーには乗らず、ホテルまでの道を歩いた。道路に積もった雪が固まって凍結していた。長男と次男の受験が重なり、彼はいろいろと我慢してきたので、二度目の二人旅を決行することになった。長男とは、タイ、次男、三男は北海道を一緒に旅した。

               1日目の夕食は、回転寿司。ネタが大きく、おいしかった。三男は人生初のうにを食べて、いたく感動していた。「ありがとう」を連呼していた。末っ子だからか、お金のことをいつも気遣ってくれる。彼が低学年のときも、「住宅ローン大丈夫?」と何度も聞かれたことがあった。ホテルに戻り、翌日のスノボーのために早めに就寝した。
              | newlifeblog | - | 22:13 | - | - | - | - |
              学校説明会
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                 先週の土曜日、次男が受験する某私立高校の学校説明会に彼とふたりで出かけた。説明会では担当の先生が難関大学への現役合格のノウハウを力説された。このへんは公立高校との違いを感じる。長男も大学受験の年だが、基本的には塾の担当者が進路相談に乗ってくださっている。

                 説明会の後は施設見学。ただただ施設の豪華さに驚かされる。食堂とは言わず、カフェテリヤ。(写真) スープ・カレー400円は安い。親の心をくすぐる演出が随所にあった説明会だった。私立に行かせてあげたいとの気持ちにさせられた。しかし、我が家は公立主義。(単なる経済的な理由で)

                私立の高校選びは少し難航した。ある私立高校からスポーツ推薦をいただいた。高校のバスケットの顧問の先生が無名中学の彼のプレイに目を留めてくださったことはありがたかった。強豪校の試合を視察された際、偶然見かけた彼のプレイを高く評価してくださったそうだ。「はい。お受けします」と返事をすれば、受験勉強もしなくて済むし、好きなバスケットに専念できる。心は揺れ動いただろう。しかし、最終的には推薦をお断りすることになった。少し惜しい気もしたけれど、今、気持ちを切り替えて受験勉強に励んでいる。

                 私立の試験まで残すところ2ヶ月。公立は3ヶ月。受験の冬、悔いのないように頑張ってほしい。
                | newlifeblog | - | 21:33 | - | - | - | - |
                動機づけ
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                   Global Leadership Sumit(GLS)が終わった。GLSはシカゴのウィロークリーク教会が主催し、講演内容はサテライトによって全米の会場で同時放映される。講演内容の映像に字幕がつけられ、海外でも開催されているが、大阪では初開催となった。今回は、ファシリテーター役を担当することになった。今回の講師陣も一流揃いだった。「ビジョナリーカンパニー」のジムコリンズ、ライス元国務長官、アル・ゴア副大統領の主席スピーチライターで、「モチベーション」の著者のダニエル・ピンクなど蒼々たる顔ぶれに驚かされる。米国がキリスト教国であることを改めて思わされた。

                   ダニエル・ピンクの講義が個人的にはタイムリーな内容だった。間違った「動機付け」は間違った人間観に基づいている。科学者の間では「報酬と罰」があまり効果的な動機付けとはならないことが周知の事実なのだが、教育やビジネス界では今だ有効な手段だと信じられている。

                   ダニエル氏は、「すべてのひとは受動的な存在ではないの」で、「アメとムチ」でしか動かないとの思い込みを捨てるべきであると強く主張された。その通りだと思う。

                   イエスが38年間も病に伏していた男性に向かって、「よくなりたいか」と尋ねられたこと。当たり前のような質問だが、その男性はあまりにも長い間、病に伏していたので悲観的になっていた。しかし、「よくなりたいか」との呼びかけは彼の心の奥で抑圧されていた願いが覚醒されたのだろう。彼は自分の足で立ち上がった。もちろん、神の癒しもあったが、彼自身が自分の足で立つことを決断することが不可欠であった。

                   ダニエル氏は正しい人間観に基づいた動機付けには3つの要素があることを語られた。 ー主性、◆\長  目的

                   自主性 ひとは自分で決めたルールには従うものだ。他者から押しつけられたルールは無視したり、破りたくなるものだ。自分で決めることがやる気の源になる。このことは、恩師のケニーさんから教えられた。時間はかかるが、自主的に始めたことが継続し、良い結果を出すことになる。

                   成長 成長と貢献を実感できる環境づくりが必要となる。成長を実感するだけでは不十分。自分の成長が誰かの役に立っている(将来、役に立つ)との意識が更なる成長の原動力になる。「報酬と罰」はあくまでも自分中心の動機づけでしかない。「利他の精神」こそ、自分の超越できる。

                   目的 自己を超越して、大義に帰属すること。大義のもとでは、ひとは惜しみなく犠牲を払う。この悪い例が自爆テロなどの行為だが、正しい方向づけがされれば、ひとは驚くほどに犠牲的な生き方を選択するようになる。この時点では、もはや、報酬や罰は関係ない。

                   講演が終わり、プロセスタイムの時間、会場の皆さんに、「今、あなたが動機付けしたいと願っているひとのことを思い浮かべてください。あなたは、その方が受動的で、やる気の無いひとのように見ていますか、それとも、本当はベストを尽くしたいと願っているひとだと見ていますか?」と自問するようにお願いした。私の思いに浮かんだのは二男だった。高校受験を控えている彼に口出しし過ぎている自分を反省した。家族への動機づけが一番難しいと思った。
                  | newlifeblog | - | 08:07 | - | - | - | - |
                  廃車復活
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                     愛車のOUTBACKを車検に出したところ、オイル漏れがひどく、修理に何十万もかかることが判明した。購入してからまだ7年しか乗っていない。走行距離は16万4千キロ。年間2万キロ以上走ったことになる。兼牧と同時に乗り始め、7年間の思い出が詰まっている。キャンプやスノボー、遊びでも活躍してくれた。大切に乗ってきたので、廃車になることが信じられなかった。最低10年は乗るつもりだったので、突然の廃車宣告はショックだった。下取り査定は0円。悲しい。

                     車検整備に出したのが車検の切れる2日前だったので、急遽、新しい車の確保が必要になった。スバルの担当者の方と相談し、残高クレジットで新車を購入することに決定した。5年後の車体価格を残高として設定し、5年後、車を返却するか、残高を支払って購入するかの選択がある。問題は、新車の納入まで最低2ヶ月が必要となるので、車がなくなってしまうことだった。代車をお願いしたが、2ヶ月間は長すぎて難しいとのこと。代車を何回か交換しながら、2ヶ月乗り継ぐことになりそうになった。ちょっと不便だな思ったが、仕方無い。後日、再度、相談の時を持ったとき、OUTBACKを最低限修理した上、自己負担なしで車検を通してもらえることになった。ちょっと信じられなかった。新車の納入まで、2ヶ月間乗れることになった。なんだか嬉しい。廃車復活。
                     
                    | newlifeblog | - | 09:00 | - | - | - | - |
                    信頼と期待の違い
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                       昨日、梅田MCで、「信頼と期待の違い」みたいなことを話した。時々、自分自身を含めて、多くのひとは信頼することと、期待することを混同していると思う。信頼とは、ギフト。信頼を受け取る側にとっては、信頼に値する人格形成は不可欠だが、信頼を与える側は自己責任において与えるものだから、信頼はギフトだろう。相手を本当に信頼しているのか、あるいは、期待しているかのは相手が望むような結果を出さなかったときの私たちの反応によって明らかになる。信頼を与えていた場合は、自分自身の判断に誤りがあったことを反省するが、期待を与えていた場合は相手を責めてしまう。大臣が不祥事を起こすと、首相の任命責任が問われる。信頼を与えた者の責任が問題となる。

                      ” 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」 ”(ヨハネ21:15)

                       イエスはご自身を見捨て、3度も知らないと否定したペテロに教会のリーダーの責任を託された。まだペテロは信頼を回復したわけではなかった。しかし、イエスはご自身の任命責任においてペテロに信頼を与えられた。この信頼関係においてペテロは与えられた信頼に値する者へと成長を遂げることになった。野球の監督を大きく区分すると、選手を責める監督と、自分の任命責任を引き受ける監督がいる。長期的な視点に立って選手育成の行く末を見ると、任命責任を引き受ける監督のもとで選手は期待に応えるようになるだろう。期待の前に信頼の積み上げが不可欠。

                       信頼を与えないで、期待することは、お金を渡さないで子どもに買い物に行かせ、子どもが何も買って来なかったら、「なぜ、何も買ってこなかったの」と責めるようなもの。それは、あまりにも勝手な期待だ。

                       そんなことを話しながら、2時間半の時間が過ぎた。午後9時を過ぎたころ、お先に失礼し、帰途についた。夕食は帰りにお土産で買った「551」の豚まん、2個。
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