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What I have been learning.

最近、教えられていることを綴っています。
境界線の学び Confrontation
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     日曜日のスモールグループで引き続き、Confrontationについて学びました。

    マタイ 18:15 「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。 」

     前回、Confrontationの目的が「兄弟を得ること」、真実に根ざした関係を深めることであることを学びました。今回の学びでは、「責めること」の意味を分かち合いました。日本語の「責める」という言葉には相手の過ちを指摘し、非難することが含まれています。「兄弟を責めること」に多くのひとが葛藤を覚えるのは自分にも非があるにも関わらず、他者の非を責めることは偽善ではないかとの思いを拭い去れないからです。イエスは自分の目に梁が突き刺さっているのに、他者の目の中の塵を取らせて下さいと願うことをは偽善行為だと教えられました。しかし、責める目的は指摘、非難することではありません。

    マタイ 18:16 もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。

    「すべての事実が確認されるためです」

     兄弟を責める目的は「事実確認」をするためです。それ以上であっても、それ以下であってもならないのです。事実確認には指摘、非難は必ずしも必要ではありません。ひとが罪を悔い改めないでいるのは、自分を欺いている、あるいは、事実(自分自身の問題)を認めようとしないことが大きな要因ではないでしょうか。もし、ひとが自分自身に問題がある事実を遜って受け入れるなら、指摘、非難なしに悔い改めへと導かれると思います。反対に、多くのひとは自分の問題を指摘されたり、非難されたりするなら、心を閉ざす傾向があるのではないでしょうか。私たちは自分自身に問題があることを頭では分かっていても、なかなか、心で受け入れることができません。最近、某有名ミュージシャンが逮捕された際、「捕まって良かった」と語ったそうです。彼は暴走する自分を止められなかった弱さを認めました。私たちも同じ弱さを抱えていることを忘れてはならないのです。もし、彼の親しい友人が責めること、勇気を出して事実確認をしていたなら、犯罪に手を染めることはなかったかも知れません。私たちは自分の問題を遜って認めるためには他者の助けを必要としているのです。

    ヨハネ 8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。
    | newlifeblog | 境界線 | 06:58 | - | - | - | - |
    謝罪をコミュニケートする大切さ
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       以前、全米でベストセラーになった「Love Language」(Gary Chapman)から相手に愛が伝わる5つの「愛の言葉」を紹介しました。同じ著者が「The Five Languages of Apology」(5つの謝罪の言葉)を出版しました。愛にも異なった言葉があるように、謝罪にも異なった言葉があることを教えています。

       今週の日曜日、NewHopeでの夫婦の学び会で「謝罪をコミュニケートすることの大切さ」について学びました。参加者全員に「自分にとって心からの謝罪とはどのような謝罪か?」を分かち合っていただきました。実に、様々な「あるべき謝罪」について異なる見解が語れました。夫婦の間でも「あるべき謝罪」についての見解の相違を認め合うことが、「謝罪をコミュニケートすること」の前提です。まず、私たちが「あるべき謝罪」を自分の中で普遍化させていないかを吟味しなければなりません。私たちにとって「あるべき謝罪」は普遍的な価値観を両親というフィルターを介して引き継いでいる場合が多いからです。心が伴わない謝罪は論外ですが、心からの謝罪にも異なる言葉があることを理解し、認め合うことをしなければ、相手の心からの謝罪をいつまでも受け入れることを拒み続けることになります。このすれ違いが関係の歪みとなっていきます。心から謝罪されていないとの思いは赦し合う関係の最大の妨げとなり、「謝った」、「また謝ってもらっていない」という水掛け論に終始することになるのではないでしょうか。赦しは謝罪がコミュニケートされた上に成立するからです。

      5つの謝罪の言葉を紹介します。

       Expressing Regret (反省している態度を示す)
        「ごめんなさい」

      ◆Accepting Responsibility (自分の非を認める)
        「私が悪かった」

       Making Restitution(償いをする)
        「どのように償えばいいでしょうか?」

      ぁGenuinely Repenting (自分の過ちを心から悔いる)
        「もう、二度としない」

      ァRequesting Forgiveness(赦しを求める)
        「赦してもらえますか?」
      | newlifeblog | 境界線 | 08:48 | - | - | - | - |
      境界線の学び 2
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        マタイ 18:15 「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。 」

         「Confrontation」の第二原則は「兄弟を得ること」、「関係を深めること」を目的とすることです。しかし、「Confrontation」の結果、関係に亀裂が入った、反対に責められる経験をされた方もいるのではないでしょうか。それは、「責める言葉」が相手に非難、裁きの言葉として受け止められたことが大きな要因だと思います。実際に、「責めること」の動機が人間的な義の思いであることが多いことも事実ではないでしょうか。

        ヤコブ 1:20 人の怒りは、神の義を実現するものではありません。

         イエスは「責めること」の動機を兄弟を得ること、関係を深めることであると教えられました。「責めること」の目的は神様の義を実現することではなく、神様の愛が現されることです。「責める言葉」は語る者の心の動機によって非難、裁きの言葉ともなるし、真理の言葉ともなります。ひとは非難、裁きの言葉によって変えられるのではなく、真理の言葉によって変えられるのです。

        エペソ 4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において
        成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。

         説教も同じことが言えるのではないでしょうか。聖書の言葉をどのような心の動機で語るのか、いつも自分の心を吟味しなければならないと思います。聖書には罪を責める言葉が多く記されています。聴衆が聖書の責める言葉を非難、裁きの言葉として聞くのか、真理の言葉として聞くのかは説教者の心によって大きく異なるのではないでしょうか。

         
        | newlifeblog | 境界線 | 12:36 | - | - | - | - |
        境界線の学び 
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          毎月、第四週の日曜日の昼食後、3つのスモール・グループで学び会が持たれています。私の担当は「境界線」についての学び会です。今年で2年目を迎えています。今回は「Confrontation」について学びました。「Confrontation」の意味を英和辞典で調べると対立、衝突、対抗という定義しか見当たりません。別の英英辞典で調べてみると、a meeting of persons face to face、と「顔と顔を合わせた話し合い」という定義が見つかりました。「Confrontation」とは、相手の問題点について正直な意見を分かち合う場を持つことです。「Confrontation」の訳語には言い争いを連想させる言葉がいくつも並べられていますが、本来は言い争い、裁き合いをしないで、相手の問題点について正直に話し合い、問題の解決、改善を成し遂げ、互いの信頼関係を深めることを目的としているのです。「Confrontaion」の適切な日本語が見当たらないのは、日本人の生活の営みの中で「人格に関係する問題点を話し合う」という習慣が欠如していることも関係しているかも知れません。しかし、基本的に「Confrontation」なくして、人間関係を深めることは非常に困難ではないでしょうか。

          マタイ 18:15 「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。 」

           イエスはご自分の弟子達にConfrontationの原則を教えられました。

          第一原則 「ふたりだけのところで責めなさい」

           イエスは「Confrontation」の大原則として「ふたりだけのところで責めなさい」と教えられました。しかし、多くの場合、責めるべき相手と向き合うことをしないで、ある意味で無関係な第三者のところで相手を責めるのではないでしょうか。結果、責める言葉は第三者を介して本人の耳に届き、対立を生じさせてしまいます。第三者を介した責める言葉に素直に心開くことができるひとは稀な存在ではないでしょうか。自分を責める言葉を無関係な第三者に語ったという事実が対立感情を生じさせるからです。

          イエスの時代、罪を犯したひとは「見せしめ」として大勢の人々の前で責められました。姦淫の現場で捕らえられた女性も大勢の人々の前で罪を責められました。

          ヨハネ8:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、
          ヨハネ8:4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。

           律法学者やパリサイ派の人々は姦淫の現場で捕らえられた女性をイエスの前に引きずり出し、大勢の人々の前で「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです」と彼女の罪を暴露しました。罪の習癖、性根は「辱しめ」によって変わるとの思い込みがあったのでしょう。しかし、ひとは「辱しめられる」ことによって心を閉ざしてしまうことが常ではないでしょうか。「ふたりだけのところで責める」、相手の尊厳に敬意を払うことが苦言を受け入れるための信頼の土台となります。尊厳に敬意を払わないひとの苦言は正論であっても、感情的には受け入れがたいものとなるのでしょう。

          To be contiuned.
          | newlifeblog | 境界線 | 21:17 | - | - | - | - |
          境界線
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             先週の日曜日の午後、スモールグループで「境界線」について学びました。今回のテーマは「互いに重荷を負い合うことと境界線」でした。

            ガラテヤ 6:2 互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい

            「互いの重荷を負うこと」とは見境も無く他者の重荷を負うことではありませんが、どれだけの重荷を負うべきかの判断に悩むのも現実ではないでしょうか。他者の悩みや苦しみに関わるときの「境界線」について考えました。

             まず、「互いに」という言葉からも「互いに重荷を負い合う関係」は一方的な援助を与える関係とは異なります。又、「互いに」とは重荷を折半するとの意味でもありません。「互いに」とは、「重荷を負い合う関係」の土台は対等な関係にあり、義務的なものを介在させないことを教えているのではないでしょうか。境界線は私たちに「責任感」を覚えさせますが、「義務感」からは解放します。「責任感」と「義務感」を混同しがちですが、区別しなければならないと思います。「義務感」は明確な責任の範囲を示すものではないからです。他者の悩みや苦しみに関わるとき、対等な関係に立つことの大切さは、相手の悩みや苦しみの責任の一旦を担うべきではないからです。(例外もありますが)境界線の学びの中で繰り返し語るのは、他者の不機嫌さに対して責任を感じるべきではないこと(相手の不機嫌さの原因がいつも自分の態度や行いにある場合は改めるべきところは改めるべきですが、基本的には感情は各自それぞれが治めるべき自分自身の所有物です)

             「キリストの律法を全うしなさい」

            「互いに重荷を負い合う」のはキリストの律法を全うするためです。キリストの律法とは「自分を愛するように隣人を愛すること」です。ですから、「互いに重荷を負い合う」ことの動機は隣人への愛であるべきです。そして、この愛には恐れがあってはならないのです。しかし、私たちが境界線を引くことを困難にしているのが、「NO」という事で相手から誤解されたり、非難されたり、距離を置かれること、「拒絶されることの恐れ」があるからではないでしょうか。「義務感」には拒絶の恐れが含まれているのではないでしょうか。しかし、拒絶の恐れがある関係にキリストの律法は全うされることはありません。

            ルカ 10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

            「良きサマリや人の譬え」の中で「境界線」について教えられる箇所ではないでしょうか。サマリヤ人は強盗に襲われて血を流して倒れているひとを助け、応急処置を施し、宿屋まで運びました。彼は宿屋の主人に「介抱してあげてください」と二デナリを差し出し、旅の目的地へと向かったのです。彼は自分ひとりで背負うことをせず、宿屋の主人に介抱を賃金を支払って依頼しました。見方によれば、お金を払って第三者に介抱を依頼し、自分の用事を済ませるために旅を続けることが非難されるかも知れないと心配にならなかったのでしょうか。もし、彼が「義務感」から助けていたなら、恐らく心配になったとのではないでしょうか。しかし、良きサマリヤ人は「神様が割り当てられた働き」を見極めて、その責任を全うした上で、「もっと費用がかかったら、私が帰りに払います」と自発的に申し出たのです。

             「互いに重荷を負い合う関係」を継続させるのが、この自発的な助けだと思います。私たちが義務感に囚われることがないためにも、自発的な働きを大切にしなければならないのではないでしょうか。
            | newlifeblog | 境界線 | 08:26 | - | - | - | - |
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