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What I have been learning.

最近、教えられていることを綴っています。
赦されない罪 
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     マナセ王の罪によってユダは滅亡を招くことになった。「赦されない罪」についてメッセージした。

    ”ヨシヤのように心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、主に立ち返った王は、彼の先にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、ひとりも起こらなかった。それにもかかわらず、マナセが主の怒りを引き起こしたあのいらだたしい行ないのために、主はユダに向けて燃やされた激しい怒りを静めようとはされなかった。” (2列王23:25,26)

     憐れみ深い神が赦しを与えない罪とはなんだろう。マナセは父ヒゼキヤが断行した宗教改革を覆し、高き所を築き直し、農耕の神バアル礼拝、貪欲の神モレク礼拝、そして、ありとあらゆる偶像礼拝を持ち込んだ。しかし、それらの偶像礼拝は歴代の王たちも行っていた。マナセが犯した「赦されない罪」とは[神の神聖さ」への冒涜であった。

    ”さらに彼は、自分が造ったアシェラの彫像を宮に安置した。主はかつてこの宮について、ダビデとその子ソロモンに言われた。「わたしは、この宮に、そしてわたしがイスラエルの全部族の中から選んだエルサレムに、わたしの名をとこしえに置く。”(2列21:7 )

     マナセ王は自分が造ったアシュラの彫像を神殿に安置した。それは、神様が「わたしの名をとこしえに置く」と言われた聖別された場所だった。神様がイスラエルの全部族の中から選ばれたエルサレムの神殿は聖別された場所、神の神聖さを現された場所だった。それは、エデンの園で食べてはならないと神様が禁じられた一本の木、善悪を知る木のようなものだった。アダムとエバは園のどの木から取って食べても良かったが、善悪を知る木からだけは取って食べてはならないと命じられた。その木は聖別された、神の神聖さの象徴だった。その木を食べたとき、ふたりはエデンの園から追放された。

     聖書において「離婚」を認める条件は「不貞の罪」だ。夫婦にとって性は神聖なもの、不可侵なものである。しかし、その神聖さものが汚されるとき、夫婦の本質的な関係は根源的に破綻する。赦すことで離婚を乗り越えることは素晴らしいことだが、喪失したものを取り戻すことはできない。だから、聖書は離婚を認める。「もう愛がなくなった、性格の不一致」は離婚原因の上位にあるが、聖書はそれらの理由を認めない。ただ、夫婦にとって神聖であるべき性が第三者に踏みにじられることで関係が破綻することを認めている。形だけで夫婦を続けることができるかも知れない。相手を赦しても、一度、失った神聖さは取り戻せない。

     ”まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている。」と言っていたからである。” (マルコ3:28-30)

     イエスは「聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます」と赦されない罪が神の神聖さへの冒涜であると教えられた。神の愛を疑い、戒めに従わず、離れることがあっても、神の憐れみの外には出るわけではない。ただ、神様の神聖さへの冒涜だけは赦されることはない。大切なことは、それ以外のすべての罪は赦されることを覚えたい。

    | newlifeblog | Spirituality | 22:02 | - | - | - | - |
    天にいます私たちの父よ
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       弟子のひとりがイエスに祈りを教えてくださいと願った。イエスの祈りの生活が神への揺ぎ無い信頼を築いていることに気づいたからだろう。イエスが教えてくださった「主の祈り」は「天にいます私たちの父よ」との呼びかけから始まる。誰に祈りを捧げているのかが、何を祈りよりも重要ではないだろうか。「天にいます私たちの父よ」との呼びかけには父なる神様への全幅の信頼と親しさが込められている。イエスが主の祈りを教える前に「異邦人の祈り」に言及された。それは、異邦人の祈りが主の祈りと対極的であり、反面教師とするためだった。

      ” また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。” (マタイ6:7)

       異邦人の祈り(偶像への祈り)は呪文を唱えるように同じことばが繰り返される。それは、偶像への祈りが抱える宿命的な二つの恐れがあるからだ。第一は「無関心」への恐れ。偶像の神々がひとの必要に深い関心を寄せているとは誰も信じていないし、期待もしていない。祈りが同じことばの繰り返しになるとは、「ことば数が多ければ聞かれる」との思いがあるからだ。偶像への祈りは聞いてもらうことにエネルギーが注がれる。無関心なひとに願いを聞き入れてもらうことは骨折る作業だ。何度も何度もおなじことを言い続けなければならない。

       神の愛の深さは私たちの必要を知っていてくださる量に比例する。神様は私たちの必要や願いをどれだけ知っていてくださるのか、私たち自身が気づいていない必要や願いまでも知っていてくださる。

       ” だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。” (マタイ6:8)

       「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先」とは私たちが祈る前との意味だけに限られるのではなく、私たち自身が自分の必要や願いに気づく前、あるいは、心にある思いを言葉に置き換える前も含まれる。

       ”ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。”(詩篇139:4)

       私たちが自分の思いを言葉に置き換えた時点で、伝えたいことの半分以下、20−30%ぐらいになってしまうのではないだろうか。父なる神様は私たちの言葉にならない思いまでも知っていてくださる。だから、私たちは同じことばを繰り返す必要がない。いや、イエスが言われるように繰り返してはいけないのだ。なぜなら、偶像への祈りのように同じことばを繰り返すことで聞かれるとの安心感を得ることで、父なる神様への信頼が蔑ろにされるからだ。「天にいます私たちの父よ」との呼びかけに信頼の思いを傾けることが安心を得ることが大切だと思う。

      | newlifeblog | Spirituality | 06:08 | - | - | - | - |
      ヨナの怒り
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         月曜日、上沼先生を講師に迎えての黙想セミナーに日帰りで出席した。今回は「ヨナの怒り」がテーマだった。ストア派の影響を受けたキリスト教はヨナの怒りを否定的に解釈する傾向が強い。ストア派が目指したのは「平常心」、何があっても怒らないことであった。しかし、健全に怒ることを忘れた心は情熱を失っていく。神はヨナの怒りを抑圧されず、正しい方向へと導こうとされたのではないだろうか。

         黙想の時間、心にある怒りについて静かに考えた。そして、互いに気づいたことを分かち合う時間を持った。牧師にとって自分の心の内を分かち合える場は非常に貴重だ。大切なことは批難もアドバイスもせず、ただ耳を傾けること。上沼先生の導きから多くのことを学ばせていただいている。今回も、依頼されている本を書き上げるようにと励ましてくださった。本当にありがたいお言葉だった。
        | newlifeblog | Spirituality | 20:21 | - | - | - | - |
        ヒゼキヤ王
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           ユダの王ヒゼキヤ王はモーセの作った青銅の蛇を打ち壊した人物として知られている。イスラエル民族にとっては「救いの象徴」であった青銅の蛇も「礼拝の対象」になっていた。人々は青銅の蛇に香を焚いていた。青銅の蛇は神様がモーセに命じて作られたもの、神の救いの手段として用いられた。青銅の蛇はあくまでも救いの手段であって、「神の救い」そのものではなかったが、偶像礼拝は巧妙に人々の心に忍び込む。ヒゼキヤ王は民族の宝であった青銅の蛇が「礼拝の対象」となっているのを見て、それを打ち砕いた。その衝撃はイエスが磔された十字架が現存していたとすると、その十字架を叩き壊すことに等しい。ヒゼキヤ王は天地創造の神だけを礼拝することを民に徹底させた、宗教改革者であった。しかし、彼の信仰に暗い影を落とす出来事が起こった。

           北イスラエルの首都サマリヤがアッシリヤによって陥落してしまった。この悲劇がヒゼキヤ王の神への確信を激しく揺さぶった。彼は契約の民であるイスラエルが異邦人の手に下ることは絶対に無いと信じていたと思う。彼は神への確信をイスラエル国家の繁栄と永続に築いていたのではないだろうか。北イスラエルが陥落したとき、神への確信も音を立てて崩れていった。

          ”罪を犯しました。私のところから引き揚げてください。あなたが私に課せられるものは何でも負いますから。」そこで、アッシリヤの王は銀三百タラントと、金三十タラントを、ユダの王ヒゼキヤに要求した。”(2列王18:14)

           北イスラエル陥落から8年後、アッシリヤがユダの城壁の町々を攻め取ったとき、ヒザキヤ王は使いの者をアッシリヤの王のもとへ遣わし、「罪を犯しました」と反逆の罪を謝罪した。「神に従い、あなたに反逆したことが間違いだった、これからはあなたの奴隷としてお仕えします」と手のひらを返したような態度を取った。アッシリヤの王への恐れが神様の存在を隠してしまった。神への信頼を最も妨げるのは「ひとへの恐れ」ではないだろうか。ヒゼキヤ王はアッシリヤの王の要求を満足させるために神殿の銀と王の宝物倉の金すべてを差し出したが、金は足りなかった。すると、ヒゼキヤは神殿に入り、金の装飾を剥ぎ取り、貢ぎ物として差し出した。神殿内の金の装飾は栄華のしるしではなく、神への「畏怖の念」のしるしであった。ヒゼキヤ王は神への畏怖の念をアッシリヤの王に捧げたのだ。神への畏怖の念とひとへの恐れは紙一重の関係にある。天地万物の創造主なる神への畏怖の念はひとを恐れることによって損なわれる。そのことを心に留めておきたい。

          ”人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。”(箴言29:25)

          | newlifeblog | Spirituality | 17:53 | - | - | - | - |
          世にあっては患難があります
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             福島原発事故の会見を聞くたびに違和感を覚えたのは安易に安心させようとしていることだ。「直ちに健康には影響はありません」、「CTスキャンの何分の一程度です」との言葉が繰り返された。当初は20キロ圏外は安全だと言い続けたが、30キロ以上離れた飯舘村へ一ヶ月以内の避難要請が出た。住民の方は「裏切られたような気持だ」と憤慨する。問題は無いと言いながら、問題が悪化していくと不信感が深まってしまう。最近の調査では原発から放出されている放射線の数値の政府発表を「信じない」が58%にもなった。

             イエスはご自身に従う弟子達に迫害される日が訪れることを前もって話された。弟子達がイエスに従ったのは世俗的な動機からだった。イスラエルの支配層に登りつめることだったが、イエスの言葉は彼らの淡い期待を打ち砕いた。イエスの誠実さはありのままの真実を語られることにあった、それが歓迎されない、喜ばれない真理であったとしても。

             ”人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。” (ヨハネ16:2)
             
              イエスの言葉は弟子達にとっては聞きたくない真実であった。イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」と聞きたい言葉ではなく、聞くべき言葉に耳を傾けることを願われた。それは、私たちの人生にとって本当に大切な真理は聞きたくない言葉の中に多くあるからだ。しかし、私たちはに聞きたい言葉に耳を傾け、聞きたくない言葉には耳を閉ざす傾向がある。南ユダで活動した預言者ネヘミヤは預言者や祭司が神の言葉ではなく、民の聞きたい言葉を語ったことを非難した。

             ”彼らは、わたしの民の傷を気軽にいやし、平安がないのに、「平安だ。平安だ。」と言っている。” (エレミヤ 6:14)

             安易な癒しがブームになる背景には見たくない、聞きたくない現実に目を逸らしていることが根底にある。「安易な癒し」は気休めに過ぎない。預言者エレミヤは南ユダが滅亡へと向かっている現実をしっかりと受け止め、神に立ち返ることを叫ぶ続けたが、その声は無視され続けた。民が聞きたかったのは「平安だ。平安だ。」との気休めの言葉だったからだ。ある意味で両者の思惑が一致した。

             ”わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。” (ヨハネ 16:33)
             
             「世にあっては患難があります」、この真実を受け入れることが「平安を持つこと」の土台となる。なぜなら、本当の平安とは見るべき、聞くべきありのままの現実を直視し、その中にある希望を自分の目で見いだすことによって心に生じる。
             

            “人生は困難なものである。これは偉大な真実、もっとも偉大な真実のひとつである。それは、ひとたびこの真実を悟ればそれを超越できるがゆえに、偉大な真実なのである。いったん人生が困難なものであると知るーそれを本当に理解して受け入れるーならば、人生はもはや困難ではない。いったん受け入れられれば、人生が困難であるという事実は問題ではなくなるのである。” 「愛すること、生きること」(スコット・ベック)

            | newlifeblog | Spirituality | 05:38 | - | - | - | - |
            日本を愛する心
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               東北大震災後、日本人の愛国心が高まっている。「Pray for Japan」、「がんばろう日本」などのスローガンが掲げられている。しかし、「愛国心」という言葉に抵抗を覚えるひとも少なくはない。やはり、愛国心が政治利用された経緯があるからだろう。第二次世界大戦中、多数のキリスト者が「非国民」のレッテルを貼られ、迫害を受けた。多くの牧師が逮捕され、投獄された過去がある。「愛国心」=「国粋主義」、「全体主義」というイメージを払拭することが難しいのも事実だ。「愛国心」が政治理由される危険性を知らない世代は「世論」に呑み込まれる危うさを抱えていることは否定できない。

               内田樹氏が「「世論」とは自分が言わなくても誰かが言ってくれる言葉だ」とようなことを書いていた。自分が言わなくても誰かが言ってくれる言葉には誰も責任を持たない。それが、世論の恐さだ。「愛国心」が高まる中、キリスト者は「日本を愛すること」を聖書から再認識する必要があると強く感じる。

               日曜日、「ふたつのJを愛する」というタイトルでメッセージした。「ふたつのJを愛する」とは内村鑑三の有名な言葉。

               「私は二つのJを愛する。そして、それのみを愛する。一つはJesus(イエス)であり、いま一つはJapan(日本)である。イエスと日本のうち、どちらをより多く愛するかは自分も分からない。イエスと日本。私の信仰は、中心が一つの円ではなく、中心が二つの楕円である。私は知っている。この二つの中心が互いに強め合うことを。イエスは私の日本への愛を強め、また、汚れのないものにしてくれる。日本は私のイエスへの愛を明確にし、かつ、それにしっかりとした土台を与えてくれる。この二つの中心がなければ、私は単なる夢想家、熱狂者、また雲をつかむような普遍人になってしまうだろう」


               内村にとって「日本を愛すること」と「イエスを愛すること」との間には「葛藤」が無い。それどころか、互いに強め合っている。これが、内村を日本を代表するキリスト者にしたのだろう。内村は隣人を「すべての日本人」と理解していたことに学ぶべきではないだろうか。パウロも肉による同国人であるユダヤ人に対して強い愛を抱き続けた。

              ”私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。 もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。”(ローマ9:2,3)


               パウロは同国人の救いのためなら、「この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです」と語っている。彼は「キリストから引き離されるて、のろわれた者」となること、神に見捨てられることの絶望を軽く見ていたわけではない。神にのろわれた者とされても、ユダヤ人の救いを切望した。キリスト者にとっての「愛国心」は偏狭な愛ではなく、神が日本を愛しておられる愛を目標とする。日本のリバイバルはひとりひとりのキリスト者が「真の愛国心」を育むことの延長線上にあるのではないだろうか。
              | newlifeblog | Spirituality | 06:59 | - | - | - | - |
              Why God ?
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                先週の 金曜日、観測史上最大の東北大地震が日本を襲った。テレビをつけたのは津波被害が出る前だったので、倒壊した建物は映っていなかった。地震の規模の割りには被害が少なくて良かったと思った。しかし、それから数十分後、事態は一変した。

                 土曜日の朝、準備していたメッセージを別の機会に話すことに決めた。今回の大災害をキリスト者はどのように受け止めるべきかのかを聖書から話そうと決めた。メッセージを準備する時間は一日しかなかったが、どうしても話しておきたいことがあった。18日の金曜日、PTA会長を務める小学校の卒業式がある。卒業式のスピーチである詩を朗読するかを数日考えていた。その詩は米国の同時多発テロで被害にあった貿易センタービルで救助活動中に命を落とした29歳の消防士が10歳になる長男を溺死で失ったときに綴ったものだ。卒業式という希望に満ちた式典に愛する息子を失った父の思いを綴った詩は不適切かと少し悩んだが、どうしても心に迫るものがあったので話すことに決めた。金曜日の朝のことだった。その日の午後2時ごろ、そのようなことをある人に話した。それから、一時間後に大地震が起こった。日曜礼拝のメッセージの中でも紹介したいと強く思わされた。

                「最後だとわかっていたなら」

                 

                あなたが眠りにつくのを見るのが最後だとわかっていたら

                わたしは もっとちゃんとカバーをかけて 

                神様にその魂を守ってくださるように祈っただろう

                 

                あなたがドアを出て行くのを見るのが

                最後だとわかっていたら

                わたしは あなたを抱きしめて キスをして

                そしてまたもう一度呼び寄せて 抱きしめただろう

                 

                あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが

                最後だとわかっていたら

                わたしは その一部始終をビデオにとって

                毎日繰り返し見ただろう

                 

                あなたは言わなくても わかってくれていたかもしれないけれど

                最後だとわかっていたなら

                一言だけでもいい・・・「あなたを愛してる」と

                わたしは 伝えただろう

                 

                たしかにいつも明日はやってくる

                でももしそれがわたしの勘違いで

                今日で全てが終わるのだとしたら、

                わたしは 今日

                どんなにあなたを愛しているか 伝えたい

                 

                そして わたしたちは 忘れないようにしたい

                 

                若い人にも 年老いた人にも

                明日は誰にも約束されていないのだということを

                愛する人を抱きしめられるのは

                今日が最後になるかもしれないことを

                 

                明日が来るのを待っているなら

                今日でもいいはず

                もし明日が来ないとしたら

                あなたは今日を後悔するだろうから

                 

                微笑みや 抱擁や キスをするための

                ほんのちょっとの時間を どうして惜しんだのかと

                忙しさを理由に

                その人の最後の願いとなってしまったことを

                どうして してあげられなかったのかと

                 

                だから 今日

                あなたの大切な人たちを しっかりと抱きしめよう

                そして その人を愛していること

                いつでも いつまでも大切な存在だということを

                そっと伝えよう

                 

                「ごめんね」や「許してね」や「ありがとう」や「気にしないで」を

                伝える時を持とう

                そうすれば もし明日が来ないとしても

                あなたは今日を後悔しないだろうから



                 今回の大災害で「命のはかなさ」を改めて思わされた。命はその「尊さ」と矛盾するかのように、あまりにも「はかない」。私たちは命の「尊さ」と「はかなさ」をしっかりと受け止めることが、今回の大災害に対して持つべき心の態度だと思う。命の尊さだけを強調するのではなく、「はかなさ」も心に刻みたい。10歳の長男を失った父の後悔を繰り返してはならない。今日が最後かも知れないと心の隅で思いながら、生きることが「天国に宝を積む生き方」へとつながっていく。
                | newlifeblog | Spirituality | 07:05 | - | - | - | - |
                「心の割礼」
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                   今日、数年ぶりに定期健診を受けた。簡単な検査だけだったが、血圧の下の数値(拡張期血圧)が少しだけ高いと言われた。運動もしているし、体重の増減にも気をつかっているので少し驚いた。塩分を控えないといけない。血液検査は一週間後に知らせてもらえる。年齢的に食事にもう少し気をつけないといけないと思わされた。これからは定期検査を一年に一度は受けるようにしよう。

                   霊的のチェックアップも有益だと思う。

                   日曜のメッセージは「心の割礼」について語った。ユダの王ヒザキヤ王の生涯が絶賛された理由のひとつに偶像礼拝を徹底して拒んだことにあった。

                  ”彼は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシュラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。そのころまでイスラエル人は、これに香をたいていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。”(2列王18章4節)

                   歴代の善い王も高き所を取り除いたり、石の柱を打ちこわしたことはあったが、「青銅の蛇」だけには手をつけなかった。なぜなら、青銅の蛇はモーセが作ったものであり、救いのシンボルであったからだ。民数記21章にエジプトを脱出したイスラエルの民が食べ物のことで神様とモーセに反逆した出来事が記されている。神様は民の反逆への裁きとして燃える蛇を送られたので大勢が倒れた。民はモーセのもとへ集い、反逆の罪を認め、神様の憐れみを求めた。

                  ”すると、主はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人がかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。”(民数21章10,19節)

                   モーセが旗ざおの上につけた青銅の蛇は十字架に釘付けされたイエスの象徴だった。蛇にかまれた者が青銅の蛇を仰ぎ見るだけで癒された。イエスの十字架を信仰によって仰ぎ見ることで救われる。「青銅の蛇」は旧約の時代におけるイエスキリストの十字架の象徴であり、神様の憐れみのしるしだった。しかし、いつの間にか「青銅の蛇」は「救いの象徴」から「救いの保証」になってしまった。イスラエルの民が「青銅の蛇」を「救いの保証」としたとき、偶像になってしまった。金の子牛は民がモーセの兄アロンに願って作られた偶像であったが、青銅の蛇は神様がモーセに命じて作られたものであって、偶像ではなかった。ヒゼキヤ王はモーセの作った「青銅の蛇」が民の心の中で偶像となっているのを見て、民族にとっての信仰の遺産であった「青銅の蛇」を打ちこわした。民は大きなショックを受けたに違いない。

                   もし、イエスが釘付けされた十字架、流された血が付着したままの状態で現存していたら世界遺産に指定されているだろう。モーセが打ちこわした「青銅の蛇」は現存する十字架に匹敵するほどの信仰の遺産であった。しかし、ヒゼキヤ王は神様への礼拝を少しでも妨げるなら、例え良いものであっても退けた。「良いものは最善の最大の敵である」とは真実な言葉だろう。

                   私たちの神様への礼拝を妨げるものは罪だけでなく、良いもの、良い活動でもあることを心に留めたい。良いもの、良い活動は肉の誇りを生み出しやすい。「救いの保証」となってしまうことがある。イエスの時代、ユダヤ人は割礼を受けていることに甘んじて、救い主を拒絶した。もし、彼らが割礼に甘んじていなかったなら、救い主を心から歓迎したに違いない。肉の誇りこそ、私たちの心から切り取られなければならない「心の包皮」だ。

                  ”かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。”(ローマ2章28節)

                   
                  | newlifeblog | Spirituality | 19:48 | - | - | - | - |
                  心の整理
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                     物の整理が苦手のひとには幾つかの理由がある。

                     (が捨てられない
                    ◆ゞ菠ができない
                     完璧主義

                     物の整理が苦手なひとは心の整理も苦手な傾向があるように思う。統計などは存在しないが、物と心の整理の間には共通点があるような気がする。

                     物が捨てられないひとは、心にいろいろと溜め込んでしまう傾向があるのではないだろうか。数年前の出来事もなかなか忘却しないで抱え込んでしまう。区分ができないひとは優先順位がいつも曖昧なままなので大事なことよりも緊急なことが優先される傾向がある。サイレンを鳴らして走る救急車に道を譲るようなものだ。完璧主義の傾向があるひとは折り合いをつけるのが苦手なので難しい問題になると手をつけることをしないまま放置する傾向がある。いずれの場合も、心のキャパを超えてしまうことになる。

                     イエスは「心の整理」について教えられた。

                    ”だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。”(マタイ6:33 、34)

                     心の整理の第一原則は神様が一番願っておられることを尋ねることを習慣とすること。「神の国とその義をまず第一に求めなさい」とは神様が私たちに願っておられることを優先順位の第一に置くことだと言える。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」とは必ずしも霊的なことだけに限定されるわけではない。

                     心の整理の第二の原則は「その日の労苦」を見極めることを習慣とすること。「あすのことはあすが心配します」、明日の労苦は明日に骨折るべきだ。その日の労苦以外は、ひとつの箱の中に投げ込む必要がある。明日の心配事を箱の中に投げ込むとは、神様に心配事を委ねること。明日の心配事を神様に委ねると継続した緊張感から解放される。継続した緊張がストレスの原因になる。それは、普段よりも早く起きなければならないとき、絶対に寝過ごしてはならないとき、タイマーのセットをしたか気になりながら疲れて眠りについてしまったときの緊張のようだ。その緊張が睡眠の妨げとなる。しかし、タイマーをセットしておけば、念のため複数の目覚しい時計を枕元に置いて眠るとき、安心してぐっすりと眠ることができる。そして、アラームの音と共に爽快に目覚めることができる。神様に明日への心配事を委ねると、その心配事がその日の労苦になったとき、神様がアラームを鳴らしてくださる。「さあ、今日、あなたの心を砕いて取り組みなさい」とおっしゃってくださる。

                     神様が一番願っておられると思えること、そして、その日の労苦に心を砕くなら、「十分あります」とのイエスの言葉通り、心は充足感で満たされる。この充足感が疲労感を解消してくれる。
                     
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                    貪欲の神に仕えてはならない
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                       今週のメッセージは「貪欲の神に仕えてはならない」だった。

                      また、あなたの子どもをひとりでも、火の中を通らせて、モレクにささげてはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。(レビ1821

                        モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民に神様はカナンの地に住む異邦の民の忌み嫌うべき慣習をまねてはならないと厳しく禁じられた。レビ記 18章には「姦通の罪」がリストアップされている。その中に「あなたの子どもをひとりでも、火の中を通らせて、モレクにささげてはならない」との戒めが記 されている。イスラエルの民がこの戒めを聞いたとき、耳を疑ったのではないだろうか。「一体、どこの誰が自分の子を火に投げ込むようなことをするだろう か。狂気の沙汰としか言いようがない」と口々に言い合ったのではないだろうか。

                       アハズは二十歳で王となり、エルサレムで十六年間、王であった。彼はその父祖ダビデとは違って、彼の神、主の目にかなうことを行なわず、イスラエルの王たちの道に歩み、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の、忌みきらうべきならわしをまねて、自分の子どもに火の中をくぐらせることまでした。”’(粁鷁Φ16章2,3節)

                       「自分の子どもに火の中をくぐらせることまでした」

                      ダ ビデの血を受け継ぐアハズ王はイスラエルの王たちの道に歩んだだけではなく、偶像の神モレクに自分のこどもをいけにえとして捧げるまでに堕落した。「一体 どこの誰が自分の子どもを火の中に投げ込むだろうか」と驚愕した民が自分の子どもを火の中に投げ込むまでに堕落した。これが、貪欲の恐さだ。「モレクにさ さげてはならない」との戒めは貪欲の神に仕えてはならないとの戒めではないだろうか。

                       21世紀の今も、貪欲の神モレクは姿形を変えて崇 拝され続けている。多くのひとは貪欲の神に多くの犠牲をいけにえとして捧げ続けているのではないだろうか。資本主義思想は「健全な手段で富をより多く獲得 することは善である」との思想だが、資本主義思想を定着させることになったのはルターの「万人祭司」の教えであった。宗教改革まで、神に栄光を現すことが できたのは聖職者たちだけであって、世俗の仕事に従事する者は神様の栄光を現すことはできないと考えられていた。世俗の仕事で多くの富を得ることは卑しい ことと見なされた。しかし、ルターが勤勉に労働することこそが神様の栄光を現すことだと教えたことで、人々は心を込めて仕事に従事するようになった。当然 の結果として所得が倍増した。そこに、貪欲の神が忍び込んだ。今日、勤勉に仕事をする目的が神様の栄光のためではなく、より多くの富の獲得にすり替わって しまった。「もっと多くを」との貪欲の心を満たすために惜しみなく犠牲が捧げられている。家族や子どもに犠牲が強いられている。その犠牲は神様への捧げも のとしてではなく、貪欲の神モレクへのいけにえとして捧げられているのではないだろうか。私たちはいかなる犠牲も貪欲の神モレクに捧げてはならない。神様 お一人が私たちの捧げものを受け取るべきお方である。


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