blog index

What I have been learning.

最近、教えられていることを綴っています。
インターン・ミーティング改め、ミニストリー・ミーティング
0


     月曜日、午後7時から10時までインターン・ミーティング改め、ミニストリー・ミーティングを持った。ニューライフから3名、ニューホープから1名の合計5名(私を含め)。今回は「チーム・ビィルディング」について学んだ。チーム作りの難しさはプロ野球で現役時代に選手として活躍したひとが必ずしも有能な監督になれるわけではないことが証明している。野球を知り尽くしていても、信頼関係の構築への洞察が欠けていれば良いチームを作ることは困難となる。

     そこで、最初にチーム作りをする自分自身が目標遂行型なのか、人間関係重視型なのかを明確に理解する必要がある。目標遂行型とは結果を重視するが、人間関係重視型は関係が深まることを重視する。少し極端な言い方をすると、目標遂行型は人間関係を犠牲にしてでも結果にこだわるが、人間関係重視型は結果を犠牲にしてでも人間関係にこだわる。全てのひとがどちらかに完全に区別されるわけではないが、傾向として自分がどちらに属しているのかを理解していないと、チーム作りが困難となる。もし、リーダーが人間関係重視型なら、同じようなメンバーを集めやすい。すると、そのチームは人間関係を重視する傾向がますます強くなり、結果が軽視されることになる可能性がある。すると、周りの人々への負担が生じる。反対もしかり。

     自分自身の傾向を理解すると、チームのメンバーの傾向も見えてくる。チームのメンバーがストレスを抱え込まないためには、各メンバーの傾向を理解した上での役割分担が必要となる。人間関係重視のメンバーが事務作業的な仕事に従事し過ぎるとストレスが溜まる。目標遂行型のメンバーが自分の貢献度が具体的に分かる仕事に従事しないでいると同じようにストレスを溜めることになる。

    チーム作りの名著「The Five Dysfunctions of a Team」(チームを機能不全に陥れる5つの要因)に挙げられてる問題のひとつに「信頼の欠如」がある。チームのメンバーが疑心暗鬼に陥ると、チームは機能不全となる。チーム・スポーツを見ていると不調なチームには個人プレーが目立っている。「自分が何とかしなければ」との思いが個人プレーを助長する。

     自分自身の傾向でもある人間関係重視型のひとは他のメンバーへの気遣いから、孤軍奮闘する傾向があるため、他のメンバーが信頼されていない受け止めてしまう危険性があることを覚えたい。その意味において、人間関係重視型のひとは「メンバーにお願いすること」の大切さを学び続けなければならない。そして、目標遂行型のひとは「メンバーの意見に耳を傾けること」を学ばなければならない。
     
    | newlifeblog | Leadership | 08:08 | - | - | - | - |
    サーバント・リーダー会 2009/03/08
    0


      NewHopeのサーバント・リーダー会で「神様の恵み」について学びました。救いに与る前の私たちの霊的状態についての見解が神様の恵みに生きる信仰生活の基礎を築く大切な要素になると思います。ルカ15章には失われたものが見つけ出される3つの譬え話が記されています。

       ^貮い陵咫´◆^賈腓瞭鴫漾´ 放蕩息子

       この譬えの共通点は「失われたものが見つけ出される」、私たちの救いにおける神様の恵みについて教えている。大切な問いは「失われたもの(羊、銀貨、息子)は自力で元のあるべき場所(群れ、装飾品、父のもと)に戻ることができるか?」です。

       迷い出た羊は自力で群れに戻ることができるのでしょうか?羊には方向感覚が備わっておらず、群れの場所を自力で探し当てることは不可能です。もし、群れに戻れたとしたら、それは偶然でしか無い。失われた一枚の銅貨は自力で元の装飾品の収まるべき場所に戻ることができるでしょうか。もはや、不可能です。少し前、自宅用の眼鏡を家の中で失い、何日も探し続けたのですが見つかりませんでした。その時、眼鏡が自力で置いたと記憶している場所に戻っていてくれたらとはかない思いを抱いたことを思い出します。(恐らく、机の下のゴミ箱に落ちてしまい、ゴミと一緒に廃棄されたのでしょう)

       それでは、父の財産を要求し、全てを現金化して遠い国へ旅立った弟息子は自力で父の家に戻ることができるのでしょうか?彼が豚の食べるいなご豆で空腹を満たしたいと思ったとき、「我に返る」という経験をした。そして、「遠い国」を出て、父の家へと向かった。父は弟息子を遠くに見つけたとき、かわいそうに思い、彼のもとへと走り出した。そして、最上の着物、指輪、くつを与え、息子として迎え入れた。放蕩息子の譬えをを読む限り、弟息子も遠い国を出て、村まで戻ったことによって父に見いだされたとも言えるかも知れません。もし、父が遠い国へ旅をして変わり果てた息子を探し出したら分かりやすかったかも知れない。しかし、三つの譬えの強調点は「完全に失われた状態」、全的堕落であると思います。救いに与るまえでの人間の霊的状態をどのように理解するのかが、神様の恵みに生きる信仰生活の礎を築くと思います。

       放蕩息子が「私はここで飢え死にしそうだ」と極限状態に陥ったとき、彼は父の家にあるパンを求めた。彼は父との和解を求めてはいなかった。「雇い人のひとりにしてください」とお願いするつもりだった。彼が父の暮らす村へと歩いた道のりは救いへの歩みではなかった。父が遠くに息子の姿を見たとき、かわいそうに思ったのは痩せ衰えた息子の姿を見たからではなく、完全に失われた息子を見たからではないでしょうか。彼は村までは戻っては来たが、完全に失われた息子であることには変わりなかった。父が失われた息子のもとへと走り寄ったことで、彼は見いだされたのではないでしょうか。

       兄が父に放蕩の限りを尽くした弟のために祝宴を設けたことに対して非常に憤りました。すると、父は兄を諭し、「おまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶべきではないか」と語りました。

      「死んでいたのが生き返った」との父の言葉が完全に失われていた息子の状態を示唆しています。心臓が停止した場合、心臓は臓器としての機能を失ったわけではありませんが、自力で収縮を再開することはありません。心臓マッサージ等の蘇生術を施されなければ、確実に死に至ります。心肺停止したひとの命は第三者の手に委ねられている点において、完全に失われた状態であるとも言えます。助かる希望は誰かに発見され、適切な蘇生術を施されることにかかっています。

       私たちが神様の恵みを驚くばかりの恵みとして保つためには、救いの原点、「死んでいたこと」を忘れないでいることが大切ではないでしょうか。

      | newlifeblog | Leadership | 09:21 | - | - | - | - |
      サーバントリーダー会の学び 2
      0


        マタイ 20:28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえっ
        て仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、
        自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」

        私たちは二つの生き方を選択しながら生きています。他者に仕えてもらうことを願って生きるのか、他者に仕えることを願って生きるのかです。私たちの心の欲求は生まれながらにして「他者に仕えてもらうこと」です。他者を自分の思い通りに支配したい、動かしたいとの願いが染み付いています。

         イエスはご自分の命を「贖いの代価」と見なされた。これが、しもべの心の本質です。「贖いの代価」とは奴隷を解放するために支払われた代価です。ですから、イエスにとって弟子の足を洗うことも、病んでいるひとを癒すことも、十字架の上で身代わりの死を遂げることも義務感からではなく、しもべの心から溢れ出たものでした。しもべとなるには「しもべの仕事」に従事するだけではなく、しもべの心を持つことが不可欠です。しもべの仕事に従事しているひとが必ずしもしもべの心を持っているとは限りません。しもべの心とはイエスがご自分の命を贖いの代価と見なされたように、私たちも自分の命を他者を豊かにするための「神様の賜物」として受け止め、しもべとして生きることを選択し続けることによって、イエスキリストに似る者へと少しずつ変えられていくのではないでしょうか。

         私たちの命が他者を豊かにするための「神様の賜物」として受け入れることによって、最終的には自分の命が豊かにされるのです。私たちが自分の命を他者から仕えられることによって豊かにしようとするなら、不満感や苛立ちを抱えることになります。例えば、レストランに入り、テーブルに座ったことに気づいてもらっていないと思えるとき、次第に苛立ちを募らせることがあるのではないでしょうか。もし、レストランが混んでいて店員の方が気づいていないなら、自分の方から席に着いたことを告げるだけで苛立ちを募らせることはありません。それどころか、慌しく動き回っている店員の方を気遣うことで心を込めたおもてなしを受けることになるかも知れません。

         私たちが自分の命を他者を豊かにするための「神様の賜物」と見なすとき、私たちの人生の全ての経験が用いられるようになります。辛かったこと、悔しかったこと、嬉しかったこと、ひとつとして不要なものが無くなります。しもべの人生こそが豊かな人生となるのではないでしょうか。

        写真はThe Servant Leadership Training Course: Achieving Success Through Character, Bravery & Influence by James Hunter(Audio Book)
        | newlifeblog | Leadership | 22:29 | - | - | - | - |
        サーバントリーダー会の学び 2009/02/08
        0


           サーバントリーダーの提唱者のひとり、グリーン・リーフが記したサーバント・リーダーシップの古典的著書がやっと邦訳されました。サーバント・リーダー論が脚光を浴び始めたのは三十年前ぐらいからです。20世紀の後半、21世紀の組織運営が官僚主導型、トップダウン形態から権限委譲型、フラットな形態に移行することが予想されていました。両者の違いは官僚型組織における権威は立場によって保証されることに対して、権限委譲型組織では人格に対する信頼によって保証されることです。

          今、時代は官僚型組織から権限委譲型組織への過渡期にあると思います。日本における最高の立場にある首相の言葉も権威を失い、ワイドショーなどで笑いの種のように扱われていることは非常に危惧すべきことです。それは、一般的な日本人が従来の権威(立場によって保証された)への信頼を失うことによって不安感に支配される(魂の無政府状態)に陥っていくことになるからです。近年、社会的立場にあるひとの犯罪が増加していることも権威ある立場への尊敬の念が失われていくことに加担しているのでしょう。21世紀の教会の課題は権威に対する不信感と真正面から向き合い、聖書的権威の回復に取り組むことだと思います。

           マタイ 20:27 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがた
          のしもべになりなさい 

           サーバント・リーダーの原点は約2000年前に語られたイエスの言葉に見いだせます。イスラエルがローマ帝国の支配下に置かれたいた時代、武力が全てでした。それ以外は綺麗ごとに過ぎないと考えられていた時代において、イエスはしもべとなることを教えられたのです。しかし、弟子たちはイエスの言葉を真意を理解できませんでした。彼らにとってしもべとはリーダーと対極にあるものであり、人生の成功はしもべからリーダーとなることでしか無かったからです。

          ヨハネ13:8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないで
          ください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたは
          わたしと何の関係もありません。」

           最後の晩餐の席で、イエスの足を洗うしもべは不在でした。12人の弟子たちはイエスの足が砂塵で汚れていることを気にかけながらも、誰ひとりとして席を立ち上がり、イエスの足を洗おうとしませんでした。なぜなら、イエスの足を洗う弟子が一番立場の低い者と見なされるからでした。彼らはいつも誰が一番偉いのかと争っていたので、誰も出世争いから撤退することを恐れたのです。しもべになるには勇気のある撤退が不可欠です。彼らの心には「取り残されること」への恐れが渦巻いていました。すると、イエスが席を立ち上がり、上着を脱ぎ、弟子たちの足を洗い始められました。弟子たちはイエスの行動に当惑し、言葉に窮しました。イエスがペテロの足を洗おうとされたとき、彼はイエスを制して「決して私の足をお洗いにならないでください。」とお願いしました。彼がイエスを制した理由は幾つかあったと思います。常識的見地から師であるイエスが弟子である自分の足を洗うことに抵抗を覚えたことは確かなことであったと思います。しかし、ペテロの本音は師であるイエスに奴隷のする仕事に従事してほしくなかった、みっともない真似はしてほしくなかった、もっと毅然としていてほしかったのではないでしょうか。彼はイエスに従った来た目的は他者の足を洗うためではなく、他者に自分の足を洗ってもらうためであったことを訴えていたように思います。

                                        <続く>
          | newlifeblog | Leadership | 14:03 | - | - | - | - |
          サーバントリーダー会の学び
          0


             NewHopeの礼拝後、サーバントリーダー会で「奉仕」について学びました。教会にとって「奉仕」は背骨のようなものだと思います。背骨に歪みが生じると体のいたる箇所に痛みが生じ、日常の活動に支障を来たすようになります。教会における「奉仕」にも歪みが生じると、様々な痛みが生じ、教会の活動に支障を来たすことになるのではないでしょうか。

            「奉仕」をどのように定義するのか?

            「キリストの体なる教会を建て上げること」との意見が多くありました。恐らく、多くのクリスチャンが同じ見解を抱いているのではないでしょうか。しかし、「奉仕」の本質は「神様ご自身に仕えること」です。パウロは自らを「キリストの奴隷」と呼びました。パウロは使徒として諸教会に仕えていましたが、「神様に仕えている」との意識を失いませんでした。しかし、私たちが「奉仕すること」を「教会を建て上げること」の枠の中に見すぎるなら、教会に仕える意識が強くなり、神に仕えるしもべの意識を失っていくことがあるのではないでしょうか。「教会に仕えること」=「神様に仕えること」とは限りません。しかし、「神様に仕えること」=「教会に仕えること」、「家族に仕えること」、「地域社会に仕えること」は成立します。この意識の中での順位が大切だと思います。パウロの牧会書簡、黙示録に記されている教会の姿は「キリストの体」、「キリストの花嫁」であることには変わりがありませんが、必ずしも神様の御心と一致しているわけではありませんでした。ですから、私たちは「教会に仕える意識」よりも、「神様に仕える意識」を奉仕をすることの中心軸に置かなければならないのではないでしょうか。

            エペソ 6:5 奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。

            「キリストに従うように」

             私たちの「キリストのしもべ」として、地上の主人、教会、家族、地域社会に仕えるべきではないでしょうか。教会で熱心に奉仕をしても、家庭では奉仕をしないなら「キリストのしもべ」とは言えないのではないでしょうか。私たちは教会をキリストの体として尊びますが、「教会のしもべ」ではなく、「キリストのしもべ」であるべきだと思います。

             日曜日の礼拝のメッセージで「ぶどう園」の譬え話を取り上げました。朝一番に雇われ、ぶどう園で働いた労働者が五時過ぎに雇われた仲間の労働者が一日の賃金に相当する1デナリを受け取ったのを見たとき、自分達はもっと多くもらえると期待に胸を膨らませました。しかし、彼らも同じ1デナリを受け取ったとき、主人に文句を言いました。

            マタイ 20:12 言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。

             「私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです」

             朝一番で雇われた労働者達は仕事が与えられたことに深く感謝しました。誰よりも先に雇われたことが喜びであったのです。彼らは感謝しつつ一日の労働に従事しました。しかし、五時過ぎに雇われた者と同じ1デナリしか受け取らなかったとき、憤りが爆発し、主人を不公平だと批判したのです。その瞬間、一日の労働を終えた充足感が吹き飛び、不当な主人に酷使されたとの苦々しい思いに支配されたのです。「あなたは私をさんざん扱き使った挙句に、たった1デナリしかよこさない。私たちの受けるべき賃金をピンハネしている」との思いに囚われたのです。

             私たちが「キリストのしもべ」として神様に仕える意識を忘れるとき、私たちは他者と自分を比較するようになるのではないでしょうか。そして、自分の評価が低く、働きに対する報いが少なすぎると感じるとき、次第に仕えることの喜びを失い、搾取されたとの苦々しい思いを持つに至るのではないでしょうか。

            ルカ 10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」

            「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを」

             マルタも何もしないマリヤを見て憤り、給仕することが苦痛であるとイエスに訴えたのです。喜んで始めた給仕のはずが、いつの間にか精神的な負担となったいたのです。彼女は自分の願いからイエスに仕えていたのですが、イエスの願いには心を向けることはしませんでした。ある意味ではイエスの願いを無視して自分勝手に給仕していたとも言えるのではないでしょうか。

             私たちが「キリストのしもべ」として神様に仕えているとの意識をしっかりと持っているなら、自分の評価が低く、働きに対する報いが少なすぎると思えるときがあっても、「仕える喜び」を失うことは決して無いのではないでしょうか。

             私がいつも「私はHappyな牧師だろうか?」と問いかけます。牧師がHappyでいるのは好ましい環境によるのではなく、仕えることに新鮮な喜びを見いだしている、仕えること自体が神様の報いであることを忘れないことによると思います。
            | newlifeblog | Leadership | 09:36 | - | - | - | - |
            インターン・ミーティング
            0


               昨日のインターン・ミーティングは「悔い改め」について学びました。

              ”神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。”
                                    2コリント 7:10

              「神のみこころに添った悲しみ」と「世の悲しみ」が区別されています。自分の罪を悲しむ感情は共通しているかも知れませんが、何に対して悲しみを覚えるのかが、悲しみの行き先を決定します。「神のみこころに添った悲しみ」は、「悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます」とあります。

              放蕩息子は自分の罪を悲しんだとき、彼の足は父の家に向きました。彼の悲しみは「神のみこころに添った悲しみ」であったことが分かります。もし、彼が「世の悲しみ」によって自分の罪を悔いるなら、彼の足は父の家から遠く離れて行ったのではないでしょうか。

              「世の悲しみは死をもたらします。」

              私たちが「世の悲しみ」によって自分の罪を悔いるだけなら、その悲しみの行き先は神様との関係の断裂です。片方がいつも謝罪する関係は消滅への道を辿るからではないでしょうか。

              「神のみこころに添った悲しみ」と「世の悲しみ」の違いは、アダムとエバが罪を犯したときの神様の応答に見ることができると思います。

              創世記3:9 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」

              アダムとエバが罪を犯しとき、神様の最初の応答は「あなたは、どこにいるのか」、彼らが本来いるべき場所にいないことに対する嘆きであったのです。神様はエバに向かって「あなたは、なんということをしたのか」と責められたのですが、神様は親しい関係が損なわれたことを嘆かれたのです。「神のみこころに添った悲しみ」とは、神様の嘆きに添って自分の罪を悲しむこと、神様との関係が損なわれたことを悲しむことではないでしょうか。

              放蕩息子が自分の罪を悔いたとき、「しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。」(ルカ 15:17)と父の愛からあまりにも遠く離れている乏しい現実を悲しみました。しかし、彼は自分の犯した罪の道義的責任を放棄したわけではなく、「もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください」と申し出ることを決意したことからも、彼なりに道義的責任を強く覚えていたのです。「世の悲しみ」は道義的な責任だけを追求するだけで、神様の嘆きとは無関係です。ですから、神様が親しい関係が損なわれたことを嘆いているのにも関わらず、ますます神様から離れて行く方向へと向かわせるのです。「世の悲しみ」が至るところは、「絶対に二度としない」という果たせない誓いなのです。しかし、現実は「二度としない誓い」は繰り返し破られ続けているのではないでしょうか。私たちが「悔い改めること」を「世の悲しみ」と混同しているなら、次第に「悔い改めること」が虚しい行為のように思えるようになります。なぜなら、いくら「悔い改め」ても、何も変わらないからです。

              私たちが「神様のみこころに添った悲しみ」、神様の愛からどれほど離れて生きているのかに対して悲しみを覚えるとき、私たちは神様の無条件の愛に立ち返ることが、「悔い改め」の本質だからです。「あなたは、どこにいるのか。」との神様の声に応答することが罪を悔いた者の第一の責任ではないでしょうか。

              父の家で愛されている子として生きることが、父の愛にふさわしい者へと変えられていく場所だからです。
              | newlifeblog | Leadership | 10:31 | - | - | - | - |
              現実と向き合う
              0


                 「Transparency: How Leaders Create a Culture of Candor」(透明性 リーダーはどのように透明性を尊ぶ企業文化を構築するか」から教えられたことは、現実を受け入れることの大切さです。本書では透明性が損なわれるひとつの原因に上司が部下の否定的なコメントを受け付けないことが挙げられていました。上司が部下の否定的なコメントを非難と受け止め、関係がギクシャクするようになるケースが多く見られます。リーダーが自分の行動や決断を客観的に評価することは非常に困難です。第三者からの評価を必要としていますが、多くのリーダーは評価されることに抵抗を覚えます。ですから、部下は上司の問題点に気づいても黙ってしまうのです。企業では内部告発者が解雇されたり、左遷されるという憂き目にあることが頻繁に起こります。

                 私達には自己正当化してしまう傾向が強くあることは周知の事実です。不当な非難に対しては身の潔白を証明する必要はありますが、否定的なコメントに対しては身構えることをしないで、自己吟味の機会として用いることを心掛けたいと思います。そのためには、否定的なコメントに対してすぐに言い訳をしないで、少し考える時間を置くことが大切だと思います。もし、否定的なコメントに言い訳ばかりしていると、もはや誰も勇気を持って真実を語ってくれなくなる最悪の状況を招くことになります。私達は自分が否定的なコメントを聞かされたとき、どのような反応するのかは、家族のメンバーに聞いてみるのが一番的確な答えが返ってくるのではないでしょうか。

                 透明性を重んじる文化を築くためには、まず、リーダーがあらゆる意見に対してオープンな態度を持つことを模範として示していくことが求められています。

                 今まで自分が自己吟味する機会として受け留めた否定的なコメントを思い巡らしてみました。小学6年生の時に担任の先生から戴いたコメントがいつも心に残っています。”豊田くんは困難に対して諦めずにチャレンジするけれど、なぜ失敗したのかをよく考えないのが欠点です。”このコメントを読んだときの静かな感動は今も忘れることがありません。第三者の視点で自分を見つめることの大切さを学んだような気がします。そして、あれから30年以上が過ぎましたが、反省が足りない点はあまり変わっていないような気がします。
                 
                 

                 



                | newlifeblog | Leadership | 21:33 | - | - | - | - |
                透明性
                0


                  「Transparency: How Leaders Create a Culture of Candor」(透明性 リーダーはどのように透明性を尊ぶ企業文化を構築するか」を読んでいます。著者はリーダーシップの権威、Warren BennisとEQ(エモーショナル・インテリジェンスの提唱者)のDaniel Golemanです。連日、日本でも事故米の偽装転売事件が報道され、日本の食の安全神話が崩壊しつつあることが度重なる偽装事件によって明らかになっています。最近、AERAでも牧師の不祥事が取り上げられました。今日のニュースでは消防隊員が救急車で搬送された家に盗み目的で侵入していたことが報じられていました。

                   ニューホープのサーバントリーダー会で「透明性の大切さ」について学ぶときを持ちました。21世紀の教会にとって「透明性」は最重要課題のひとつだと思います。学びの冒頭で、「もし、私たちの誰かひとりが道端で小さいな女の子に声をかけている様子を見た10名の大人の内、一体何人が不信感を抱くと思いますか?」と質問しました。「全員」との声が挙がりました。中年の男性が小さな女の子に声をかけている様子を見て、道に迷っている女の子を親切に助けようとしていると見るひとは皆無に等しいのではないでしょうか。今、私たちは善意を疑ってかかる「懐疑心の時代」に生きているのです。ですから、教会が「透明性」を企業以上に重んじることは教会が地域社会から信頼された組織として受け入れられるためには不可欠な取り組みとなります。

                   「透明性のある組織」は正直さを尊びます。

                   マタイ 26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」

                   イエスは十字架でご自分の命を贖いの代価として捧げるために「受肉」され、地上に来られたにも関わらず、十字架にかかられる前日の夜、リーダー格の弟子達に向かって「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と胸の内を正直に話されました。あるひとはイエスが弱音を吐かれているように思える告白は「つまづき」になると考えるかも知れませんが、聖書には「つまづき」となるような記述が数え切れないほどに記されています。キリスト教信仰を非難、攻撃する人々は聖書に記された出来事を引用します。しかし、神様は聖書から「つまづき」になるような記述を削除されなかったこと、公にされたことを熟考すべきだと思います。

                   正直さと浅はかさの違いについて考えました。聖書は正直であることを求めますが、浅はかさを退けます。正直さと浅はかさを見極めることが「透明性を重んじる文化」を築く上では不可欠な要素です。

                  エペソ 4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです

                   ^Δ鬚發辰匿人を語る

                   真理を語る動機が愛であることをいつも心がけなければならないと思います。多くのひとは正義感から真理を語ることはしても、愛をもって真理を語ることはしていないのではないでしょうか。自分の正義感を満たすためだけに真理を語ることは容易ですが、神様の御心では無い、別の言い方をすれば、神様はそのひとの口を通して真理を語ることを願われていないのではないでしょうか。神様は隠された罪をあらゆる方法を用いて明らかにされること、そして、「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。(ヤコブ 1:20 )との御言葉を心に留めておかなければ、ただ裁くためだけに真理を語ることになるからです。

                  ◆(垢人に恵みを与える。

                  エペソ 4:29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。

                   「真理を語ること」における正直さと浅はかさの違いは、聞く人の徳が養われる恵みの言葉を語っているかです。真理を語ることが聞く人の徳を養わず、恵みとはならない場合、とても慎重にならなければならないと思います。聞くひとの関心や好奇心を満たすためだけに語るべきではないし、「愛は「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。(1ペテロ 4:8 )との御言葉を考慮しなければなりません。

                  ある日、ノアがぶどう酒を飲み、天幕の中で裸のままで眠ってしまいました。息子のハムが父の裸を見たとき、他の兄弟セム、ヤペテに父が裸で寝ていることを面白おかしく告げました。

                  創世記 9:23 それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。

                  「彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった」

                  セムとヤペテは顔をそむけて父の裸を見ませんでした。なぜなら、彼らは父の裸の姿を見ても自分達の徳が養われることが無いことを悟っていたからです。彼らは興味本位、好奇心から父の裸を見ることを拒んだのです。二人の息子が父の裸に着物を着せる行為こそが、「愛が罪を覆う」との意味ではないでしょうか。

                  そして、最後に最も大切なことは、「聖霊なる神様」に聞くことです。「愛をもって真理を語ること」と「聞く人の徳を養う恵みの言葉を語ること」を吟味し、最後には聖霊なる神様に耳と心を傾けることによって、語るべきか、沈黙するべきかを判断することが大切だと思います。

                   今回は、少し長くなりましたが、学び会の記録として綴ってみました。

                  | newlifeblog | Leadership | 13:38 | - | - | - | - |
                  変革の第一歩 危機感を持つ
                  0


                     今日のインターン・ミーティングは、ハーバードビジネススクールの人気教授、ジョン・コッターの著書「企業変革ノート」から「変革」について考察しました。教会の働きの中核を成すのが「変革」です。イエスキリストを救い主と信じ、受け入れることを回心と呼びます。辞書を引くと、回心とは「あるきっかけで、従来の生き方を悔い改め、新しい信仰に目覚めること。宗教的思想や態度に明確な変化が生じ、新たな統一的自我が生まれる体験」とあります。回心は「あるきっかけで、従来の生き方を悔い改める」ことによって起こります。あらゆる変革、変化は「あるきっかけ」によって、今までの生き方を見直すことが必ず先行します。その意味で、変革の第一段階は「危機感を持つこと」との本書の内容と一致します。

                     今、橋本知事が大阪府の行政を変革するために、府民、府職員が大阪府の現状に対して「危機感を持つこと」に懸命に取り組んでおられます。しかし、その手法が「否定」による危機感の高揚に少し偏っているように思えます。「大阪府は財政再建団体の一歩手前にあるのだから、今までのやり方では駄目だ。もう、抜本的な変革しか生き残る道はない。」危機感を持つために最も用いられるのが、現状の否定です。「このままでは駄目になる」。しかし、ひとが本当に変革に向かうためには「否定」からではなく、「信頼」からスタートしなければならないのではないでしょうか。健全な危機感(現状に甘んじない)は、自分の可能性を信じてもらう、信じることによって生じる現状に対する健全な不満足感ではないでしょうか。

                    「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み」 ピリピ 3:13

                     パウロのキリスト者としての成熟は、「私は、自分はすでに捕えられたなどと考えてはいません」との言葉に象徴される、従来の生き方に対する弛まない変革を求める「求道者」のスピリットを忘れなかったことにあると思います。パウロに「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のもの」に向かわせたのは、神様からの信頼をしっかりと受け止めていたからではないかと思います。

                     親が子供に対してもっと危機感を持ってほしいと願うときが多々あります。その時、親は子供に危機感を持たせるために現状を否定する傾向があるのではないでしょうか。「前回のテストの点が悪かったから、今までのような勉強の仕方では駄目だ。今回はもっと気を引き締めてやりなさい。」これでは、ひとの心を継続的に前に向かせることは難しいのではないでしょうか。やはり、「信頼されているとの実感」が、私たちを前に向かわせ続けるのではないでしょうか。親として子供達の可能性を誰よりも信じる者となりたい、牧師として、教会のひとりひとりの方々の可能性を誰よりも信じる者になりたい、そう願わされます。だから、「否定」による危機感の高揚という手法は禁じ手としたいです。

                     
                    | newlifeblog | Leadership | 22:13 | - | - | - | - |
                    考え直す習慣
                    0


                       「3 Seconds - The Power of Thinking Twice」をaudible.comからダウンロードして聞いています。「自制心」と関連する書物を検索しているときに出会った本です。著者は多くの人々が自分の直感を信じることを過大評価していると指摘し、もう一度考え直すことの必要性を訴えています。キリスト者も自分の直感をどのように評価するのかとても大切だと思います。一番陥りやすい誘惑は、直感と聖霊なる神様の声を混同することです。二つを混同しやすいのは、直感が内なる自分の声であり、聖霊なる神様の声も内なる神様の声である、両方が「内なる声」という点で共通しているからです。

                       内なる自分の声と内なる神様の声をどのように見極めるのかですが、基本中の基本は聖書の御言葉に基づいて判断することです。それは、自分の思いを肯定する聖書の言葉を探すという意味ではなく、聖書全体の導きに関する教えの枠の中で吟味することです。

                      「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。」(ヤコブ1:13)

                       神様は私たちを決して悪に誘惑されることがない方であるので、いかなる悪に向かわせる直感は内なる神様の声ではありません。この一点だけを徹底して心に留めておくだけで、直観への度を越した過信は防げるのではないでしょうか。ヤコブが「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません」と命じたのは、私たちの心が罪へと誘惑されるとき、内なる神様の声に従った言い訳することで自分の罪を正当化する傾向があるからではないでしょうか。ヤコブの信仰の名のもとで罪が正当化されることへの警告を受けとめるなら、どれだけ多くの罪が未然に防げることでしょうか。

                       二つ目に直感には深い洞察が伴ってはいない点を心に留めるべきだと思います。直感はあくまで直感であって、深い洞察ではありません。内なる自分の声には個人の洞察力が反映されますが、聖霊なる神様の洞察力が反映されているわけではありません。

                       「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。」1コリント 2:10

                       直感には神の深みが伴わないのに対して、内なる神様の声には神様の深みが伴います。別の言い方をすれば、内なる神様の声には神様ご自身のご性質が明らかにされると思います。私たちの直感が神様のご性質を反映していなければ、単なる私たちの性質の反映でしかないのではないでしょうか。

                       直感と内なる神様の声とを、御言葉と神様のご性質を通して見極めることが大切な信仰の修練ですね。本の内容とは全然関係の無いテーマになりました。

                       
                      | newlifeblog | Leadership | 06:46 | - | - | - | - |
                         1234
                      567891011
                      12131415161718
                      19202122232425
                      2627282930  
                      << November 2017 >>

                      bolg index このページの先頭へ