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What I have been learning.

最近、教えられていることを綴っています。
腰痛


 月曜日、目が覚めたら腰が痛くてなかなか起き上がれなかった。前日から兆候はあった。休日だったことと、急な予定が無かったことが幸いした。一日を安静に過ごした。夕食後、三男を連れて近くのスーパー銭湯に出かけた。去年の年末からお願いされていた。久しぶりにマッサージをしてもらう予定だったが、駐車場の門が閉まっていた。暗くてあまり見えなかったが、門に張り紙らしきものが張ってあった。倒産?閉鎖?最近はあまり行く機会はなかったが、近くにあったので便利だった。友人の牧師との交わりでも利用していた。無くなってみると寂しい気がする。

 木曜日の朝、腰痛も少し緩和してきたが、まだ腰の筋肉が固まっている。ストレッチを怠ったことが原因だと思われる。腰痛対策として腹筋、背筋、大腿二頭筋(太ももの裏側)の筋力強化に取り組んでいるが、筋トレをすると腰への負担も増えてしまう。このバランスが難しい。

 
| newlife | - | 07:02 | - | - |
所有者 OR 管理者



”だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。”(マタイ6:34)

 「あすのことはあすが心配します」とのイエスの言葉は頭では分かるが、心で実感するのは難しい。それは、自分の命の所有者が自分であるとの思いがあるからだ。所有者であるなら、あすの心配をあすにすることは問題の先延ばしになりかねない。しかし、管理者なら、「労苦はその日その日に、十分あります」との言葉と真摯に向き合うことが求められている。「心配する暇があったら」とよく言われるが、確かにその日その日の労苦に心を向けるなら心配する暇も無くなるのだろう。少なくとも心配している時間は減少することになる。

 神を神として崇めるとは、神様が自分の命の所有者であることを認めること、すなわち、「生かされている存在」としての自分を認めることだ。管理者は自分の命を神様から委ねられた大切なものとして管理すべき責任があるが、あすの心配は所有者なる神様にお任せしなければならない。あすの心配をお任せすることが無計画な人生を生きることになるのではとの懸念もあるが、心配することと計画することは異なる。計画するとは、あすのために今日何をすべきを明確にする作業だが、心配は計画が思い通りいかなかった場合を想定し、悩むことだ。しかし、人生はなかなか計画通りにはいかない。だから、計画通りにいかない場合を想定し、悩み始めたら終わりがない。イエスは「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか」と言われた。管理者の責任は病気になることを心配することではなく、病気にならないためにしなければならないことに心を配ることである。健康を管理することにもっと心を配らなければならない。

「労苦はその日その日に、十分あります」
| newlife | - | 09:25 | - | - |
多くの馬をふやしてはならない


”王は、自分のために決して馬を多くふやしてはならない。馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはならない。「二度とこの道を帰ってはならない。」と主はあなたがたに言われた。”(申命記 17:16)

 イスラエルの王は「自分のために決して馬を多くふやしてはならない」と命じられた。古代社会において王の最たる務めは軍事力の増強であり、いかに多くの馬をふやすのかに腐心する。しかし、イスラエルの王は「馬をふやしたい」との誘惑、「高ぶりの心」と戦わなければならない。

 北イスラエルの王ヨラムは父アハブから王位を継承したとき、民が父に従ったように自分に従うか不安でたまらなかったに違いない。そのようなとき、モアブの王が貢ぎ物を納めるのを一方的に打ち切ってきた。モアブの王にとって息子のヨラムの存在など眼中になかった。ヨラムは民の前で侮辱されたことに激昂し、北イスラエルの兵役義務のある男子を一人残らず召集し、南ユダの王ヨシャパテにも援軍を要請した。それでも飽き足らず、エドムの王にも助けを求めた。ヨラムは自分の背いたモアブの王を兵士の数で圧倒しようとした。

”こうして、イスラエルの王は、ユダの王とエドムの王といっしょに出かけたが、七日間も回り道をしたので、陣営の者と、あとについて来る家畜のための水がなくなった。(2列王記 3:9)

 ヨラムが兵士の数を増強するためにエドムの王の援軍を要請するために「七日間も回り道」をしたので貯蔵した水が底をついてしまった。乾燥した砂漠地帯では急速に体内の水分は失われ、水分補給を怠ると脱水症状に陥る。体内の水分の6%が失われると命の危険が生じる。貯蔵した水が底をつく事態は生命にとって危機的な状況であり、もはや戦争どころではない。兵士の数を増強すればするほど、貯蔵した水は減り続ける。それでも、ヨラムは一心不乱に兵を集め続けた。結局、ヨラムは自分で自分の首を絞め続けたのだ。

 「高ぶった心」は盲点を生み出す。そして、その盲点が致命的な結果を招くことになる。

”「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」”(ヤコブ 4:6)

 
| newlife | - | 08:38 | - | - |
4年目


 今日、PTAの決算総会があり、来年度のPTA会長に承認された。4年目となる。4年目を迎えることは予期していなかった。頑なに断われば断われたはずだが、PTAの会長を3年間務めた最後がそのような終わり方になることは望まなかった。最後の最後で決まらなかったなら、引き受けることを承諾した。結局、最後の最後まで決まらなかった。

 来月、次男が小学校を卒業する。そろそろ、卒業のスピーチを考えなければならない。次男へ向けてスピーチしたいと思う。長男は小学校の6年間を比較的穏やかに過ごしたが、次男はいろいろあった。いろいろあった分、卒業式は感慨深いものになるような気がする。PTA会長を次男と一緒に卒業する予定だったが、今年一年は三男の成長を身近で見守ろう。

| newlife | - | 21:51 | - | - |
TIAGO IORC
| newlife | - | 23:13 | - | - |
結婚式


 昨日、役場の若い職員の方の結婚式を執り行った。青少年指導員の新年会の席でその職員の方が入籍は済ませたが、諸事情により結婚式を挙げていないことが判明した。「結婚式の司式をしてあげるよ」と声をかけると、周りの人々が「そうや。豊田さん。牧師さんや。結婚式してもらい」と話しが盛り上がった。指導員の中には花屋さんもおられたので、結婚式は現実味を帯びた。しかし、新年会の席だったので話しが流れる可能性もあった。しかし、次の会議の時、指導員の方々の思いは強くなっていたので、正式に司式を引き受けることにした。結婚式を挙げなかったのは経済的な理由もあり、無償の結婚式を約束した。式の日程は奥様の誕生日、時間は役場の仕事が終わってからになるため、午後7時となった。奥様には内緒で準備を進め、当日、誕生日の夕食に誘い、教会に連れて来る計画を立てた。

 当日、午後7時前、礼拝堂には両家のご両親や友人、職場の上司、同僚の方々、青少年指導員、総勢50名以上が集まり、二人の到着を待った。7時を少し過ぎた時、一台の車が駐車場に到着した。二人が扉を開けた瞬間、待ち構えていた指導員の方々から、「おめでとう」との祝福の言葉が浴びせられた。奥様は何が何だか分からないまま、控え室へと案内された。礼拝堂の入り口では新婦の父が待っておられた。新郎とは事前に打ち合わせをしたのだが、舞い上がっていて、新婦と一緒に入場しようとしていた。手で合図を送り、前で新婦を迎えるように促した。ドタバタと始まった式だったが、讃美歌いつくしみ深みを歌い始めると厳粛な雰囲気となった。新婦の友人が泣いている姿が印象的だった。

 日曜日の夜遅くまで、教会の有志の方々が結婚式のために礼拝堂をセッティングしてくださった。ありがとうございました。
| newlife | - | 06:18 | - | - |
You are beloved son


「Fathered by God」(John Eldredge)を読んでいる。この本を購入したのは本のタイトルに惹かれたからだ。9歳のときに父を亡くして以来、天の父なる神様を慕い求めるようになった。少年の頃、父なる神様に何を求めていたのか、「肯定されること」であったと思う。祖母や母から十分に愛され、受容されて育てられたが、「肯定される」という経験が欠如していた。

"Boyhood is the time of Affirmation, the time when a boy comes to learn and learn deeply that he is the beloved son."
(少年期は肯定されるときである。少年は自分が愛されている息子であることを深く学ぶときなのだ)

 父の役割は子どもに「肯定感」を与えることだろう。「肯定すること」と「受容すること」の違いは何だろうか。ひとが内面における成熟を経験するためには「肯定感」と「受容感」が欠かせない。「受容感」とはありのままの自分が愛されていることの実感に対して、「肯定感」とは自分の秘めた可能性を信じてもらえているとの実感ではないだろうか。特に、男の子には肯定感が大切になる。

”I explained in Wild at Heart that every man and every boy is asking one core question:"Do I have what it takes?""
(Wild at Heartでも説明しましたが、全ての男性、少年は一つのことを自問し続けている。自分にはできるだろうか?)

 会社に入社したとき、同僚達と比べて自分に何かが欠けているとの思いを漠然と抱いた。それが、「自信」であることが次第に分かってきた。彼らが自信に満ち溢れていたわけではないが、ただ自分に自信が無かった。仕事で評価されても自信の無さが心から消えることはなかった。

 前任牧師のケニーさんとの出会いは「父の息子」に戻れる経験を与えてくれた。最初の出会いから10年が過ぎた頃、ケニーさんが前立癌に侵され、余命一年と宣告された。ある日、ケニーさんを見舞ったとき、「のぶ。わたしはあなたが牧師の働き以上の働きをすると信じている」と言ってくださった。この時、心で感じたこと、愛されてる息子とされていることの実感を今も忘れられない。ケニーさんが入院する前、「あなたを長年の友人に紹介したい。」と言ってくださり、米国のノースカラライナ州在住のジェリー牧師を一緒に訪ねた。ジェリーさんとの交流は愛されてる息子としての実感を更に深めている。彼は私を実の息子のように受け入れ、可能性を信じてくれた。何度、彼の口から「Nobu, You can do it」(あなたならできる。)との励ましの言葉を聞いたことか。一緒にジムに行ったり、食事をしたりする時間が自分の心に欠如していたものを満たしていった。今、自分の心には愛されている息子であるとの喜びがある。この喜びを三人の息子たちにも与えたい。
| newlife | - | 07:49 | - | - |
Begin With the End in Mind


「7つの習慣」(スティーブン・R. コヴィー)の第二の習慣に「方向を見定める習慣」がある。この習慣は子育てにおいて非常に大切になる。昨日、NewHopeの礼拝後、夫婦の学び会で子育てにおける「方向を見定める習慣」の適用について話した。Begin with the End in Mindを「方向を見定める」と訳するよりも、「青写真に沿って目の前の事に向かう」と言うほうが個人的にはしっくりする。家を建築する際には必ず設計図と完成図が描かれる。しかし、子育てにおいてはどのような大人になってほしいのかという具体的なビジョンを描かないまま、日々の子育てに忙殺されていることが多いのではないだろうか。設計図や完成図無しに家を建てることは有り得ないが、子育てにおいては十分有り得る。成人した子どもの姿を思い描きながら、日々の子育てに向かう最大のメリットは一貫性にある。

 ”この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。 ”(ローマ 12:2)

 「この世と調子を合わせてはいけません」とはこの世の型に押し込められてはいけないとの意味だ。子育てにおいて大切なことは「健全な人格」という基本の型を身につけさせることだと思う。あらゆるスポーツ、芸術、音楽に共通することは基本の型の上に応用が成立すること、基本の型無くして応用はないことだ。子育てに置き換えて言うと、健全な人格という基本の型無くして、本当の個性という応用は成立しないと言える。しかし、今日の子育てにおける思い違いは、健全な人格という基本の型を身につけさせないでも、応用、個性を伸ばすことができる、反対に自由にさせることでのびのびと育つものとの性善説にあるのではないだろうか。

 ”愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。”(箴言22:15 )

 「愚かさは子どもの心につながれている」、この愚かさとは未熟さとの意味ではない。未熟さなら断ち切る必要はない。ゆっくりと成熟へと導けばいい。この愚かさとは自分の人生を破滅へと向かわせる利己的な思いだ。自分の願い通りにならないなら、それが心から願っていたものであっても、蔑ろにする「わがままな心」とも言える。子どもの幸福は思い通りにならないことをどのように心に納めることができるかにかかっている。親が思い通りにいかないことをどのように受け止めているのかが問われる。子どもの心につながれている「愚かさ」を断ち切ることのできる懲らしめの杖とは、親自身の生き様ではないだろうか。子どもは親を見ている。

 もし、子どもが小さいときに健全な人格という基本の型を身につけさせないままにしておくと、いずれ、子どもは別の型に押し込められていくことになる。 そして、その型にはぶれない一貫性がある。子どもが直面する人生の誘惑には一貫性がある。親が子育てにおいて一貫性を失わない秘訣は大人になった子どものあるべき姿を思い描きながら、日々の子育てに向かうことではないだろうか。

 笑われるかも知れないが、私の子育ての目標は三人の息子の将来の奥さんから「おとうさん、いい息子に育てて下さってありがとうございます」と感謝されることだ。そう決めたときから、優柔不断な私の子育てに少しずつ一貫性がもたらされるようになってきたと思う。
| newlife | - | 07:31 | - | - |
こうや豆腐とコカコーラ・ゼロ


 先日、次男におつかいを頼んだ。

父  「コカコーラ・ゼロ買ってきてくれる?」
次男 「家になかった?」
父  「もう、無い。はい、200円」
次男 「行ってきます。」
父  「ありがとう。」
.........

父  「買ってきたコーラ・ゼロどこ?」
次男 「コーラ・ゼロ?」
父  「さっき頼んだやん」
次男 「お父さん、こうや豆腐買ってきてって頼んだで。」
父  「こうや豆腐???」
次男 「こうや豆腐って言った。」
父  「こうや豆腐なんか頼んでないで。コカコーラ・ゼロって言ったで」
次男 「いや、こうや豆腐って言った」

 ・・・・・・・・・
妻 「誰、こうや豆腐買ったの」

 
| newlife | - | 07:27 | - | - |
ゲラ刷りチェック


 Renovation of the Heart(心の刷新を求めて)のゲラ刷り原稿が届いた。プロジェクトがスタートして約3年、約450頁のゲラ刷り原稿の重さにお二人の翻訳者と編集者の労苦の重さを感じた。読みやすい日本語訳に感激しつつ、先週から時間を見つけては原稿のチェックに没頭した。こんなに没頭して本を読んだのは久しぶりだった。翻訳者と編集者が何度も目を通したゲラ刷り原稿をチェックするのは、粗探しをしているような申し訳無さ半分と宝探しをしているような楽しさ半分といった感覚だ。今朝、やっと全ての原稿に目を通し終えた。この本との出会いが自分の牧会理念に大きな影響を与えたと改めて思った。三十代後半、牧会理念を明確にする過程における迷いの中で、「アウトリーチ(伝道)よりも、インリーチ(キリスト者の内的変革)こそが長期的には多くの人々に福音をもたらす」とのウィラードの考え方に心から同意した。そのことが決定的な分岐点になった。インリーチこそが長期的には最善のアウトリーチだと心から思う。
| newlife | - | 07:22 | - | - |
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