月曜日、工藤先生が主宰されている牧会事例研究会に初めて参加した。参加者は工藤先生を除いて8名、お二人以外は初対面の方々だった。牧師という職をどのように受け止めるかが、牧師の精神面に多大な影響を及ぼすことを改めて思わされた。教師の約四割が燃え尽き症候群の予備軍とのデータを目にしたことがある。それでは、牧師の何割が燃え尽き症候群の予備軍なのか心配だ。
先週の礼拝で「ふたりで遣わされることの大切さ」について預言者エリヤの生涯を通してメッセージした。エリヤが人生最後の日を迎えたときのことである。
”エリヤはエリシャに、「ここにとどまっていなさい。主が私をベテルに遣わされたから。」と言ったが、エリシャは言った。「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、彼らはベテルに下って行った。 ”(2列王記 2:2 )
エリヤは「主が私をべテルに遣わされたから」とエリシャと一緒にべテルに行くことを拒んだ。エリヤは偉大な預言者であったが、孤高のひとでもあった。彼の人生には単独行動が目立つ。北イスラエルの悪王アハブのバアル礼拝を非難するときもひとりで出向いた。モーセでさえエジプトのパロ王に同胞の解放を求めるとき、ひとりではなく兄のアロンと一緒に行くことを望んだ。450人のバアルの預言者と対決したときも、彼はひとりだった。
”そこで、エリヤは民に向かって言った。「私ひとりが主の預言者として残っている。しかし、バアルの預言者は四百五十人だ。”(1列王記 18:22 )
有名なカルメル山でのバアルの預言者との対決のとき、エリヤは「私ひとりが主の預言者として残っている」と語った。彼はイスラエルの命運を自分ひとりで背負っていると思い込んでいたのではないだろうか。バアルの預言者との戦いに勝利しても、イスラエルの民は偶像礼拝、バアル崇拝から離れることはなかった。エリヤは絶望し、北イスラエルを離れ、南ユダへと逃亡した。預言者にとって職場放棄は牧師にとって礼拝を放棄すること、医師が手術中に退室することに等しい。エリヤは若い者を残し、ひとり荒野を歩き続け、「もう十分です。私のいのちを取ってください」と死を願った。神様はエリヤに食物と休息を備えられた。神様は元気になったエリヤをホレブ山へと行くように命じられた。徒歩で一週間の距離を四十日四十夜をかけてゆっくりと旅をした。生き急いだ彼が神様と共に「今日を生きること」を学ぶ旅となったのではないだろうか。
ホレブ山の洞穴で一夜を過ごしたエリヤに神様は「エリヤよ。ここで何をしているのか。」と声をかけられた。 その語りかけは職場放棄したことを責める言葉ではなく、「ひとり孤立した状態」に言及されたように思える。「なぜ、あなたはひとり孤立しているのか」と声をかけられたのではないだろうか。
”エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」” (1列王記 19:10 )
エリヤが絶望し、死を願うほどに行き詰った理由は、「ただ私だけが残りました」との言葉からひとりで重荷を背負うことに疲れ果てたことにあったことが分かる。神様はエリヤひとりにイスラエルの命運を託されたのだろうか。
”しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」”(1列王記 19:18 )
「ただ私だけが残りました」と嘆くエリヤに神様は「わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である」と語られた。神様の言葉はエリヤにとって慰めでもあり、遜らされる言葉であった。自分ひとりが神様に熱心に仕えてきたとの思いが他者を裁き、退けることになった。エリシャはエリヤに三度も退けられながらも、「私は決してあなたから離れません」と共にいることを誓った。神様は私たちひとりひとりにも、ふさわしい助け手、友を備えて下さる。私たちはふたり(複数)で遣わされるべきではないだろうか。
”もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。”(伝道 4:12 )