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What I have been learning.

最近、教えられていることを綴っています。
Begin With the End in Mind


「7つの習慣」(スティーブン・R. コヴィー)の第二の習慣に「方向を見定める習慣」がある。この習慣は子育てにおいて非常に大切になる。昨日、NewHopeの礼拝後、夫婦の学び会で子育てにおける「方向を見定める習慣」の適用について話した。Begin with the End in Mindを「方向を見定める」と訳するよりも、「青写真に沿って目の前の事に向かう」と言うほうが個人的にはしっくりする。家を建築する際には必ず設計図と完成図が描かれる。しかし、子育てにおいてはどのような大人になってほしいのかという具体的なビジョンを描かないまま、日々の子育てに忙殺されていることが多いのではないだろうか。設計図や完成図無しに家を建てることは有り得ないが、子育てにおいては十分有り得る。成人した子どもの姿を思い描きながら、日々の子育てに向かう最大のメリットは一貫性にある。

 ”この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。 ”(ローマ 12:2)

 「この世と調子を合わせてはいけません」とはこの世の型に押し込められてはいけないとの意味だ。子育てにおいて大切なことは「健全な人格」という基本の型を身につけさせることだと思う。あらゆるスポーツ、芸術、音楽に共通することは基本の型の上に応用が成立すること、基本の型無くして応用はないことだ。子育てに置き換えて言うと、健全な人格という基本の型無くして、本当の個性という応用は成立しないと言える。しかし、今日の子育てにおける思い違いは、健全な人格という基本の型を身につけさせないでも、応用、個性を伸ばすことができる、反対に自由にさせることでのびのびと育つものとの性善説にあるのではないだろうか。

 ”愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。”(箴言22:15 )

 「愚かさは子どもの心につながれている」、この愚かさとは未熟さとの意味ではない。未熟さなら断ち切る必要はない。ゆっくりと成熟へと導けばいい。この愚かさとは自分の人生を破滅へと向かわせる利己的な思いだ。自分の願い通りにならないなら、それが心から願っていたものであっても、蔑ろにする「わがままな心」とも言える。子どもの幸福は思い通りにならないことをどのように心に納めることができるかにかかっている。親が思い通りにいかないことをどのように受け止めているのかが問われる。子どもの心につながれている「愚かさ」を断ち切ることのできる懲らしめの杖とは、親自身の生き様ではないだろうか。子どもは親を見ている。

 もし、子どもが小さいときに健全な人格という基本の型を身につけさせないままにしておくと、いずれ、子どもは別の型に押し込められていくことになる。 そして、その型にはぶれない一貫性がある。子どもが直面する人生の誘惑には一貫性がある。親が子育てにおいて一貫性を失わない秘訣は大人になった子どものあるべき姿を思い描きながら、日々の子育てに向かうことではないだろうか。

 笑われるかも知れないが、私の子育ての目標は三人の息子の将来の奥さんから「おとうさん、いい息子に育てて下さってありがとうございます」と感謝されることだ。そう決めたときから、優柔不断な私の子育てに少しずつ一貫性がもたらされるようになってきたと思う。
| newlife | - | 07:31 | - | - |
こうや豆腐とコカコーラ・ゼロ


 先日、次男におつかいを頼んだ。

父  「コカコーラ・ゼロ買ってきてくれる?」
次男 「家になかった?」
父  「もう、無い。はい、200円」
次男 「行ってきます。」
父  「ありがとう。」
.........

父  「買ってきたコーラ・ゼロどこ?」
次男 「コーラ・ゼロ?」
父  「さっき頼んだやん」
次男 「お父さん、こうや豆腐買ってきてって頼んだで。」
父  「こうや豆腐???」
次男 「こうや豆腐って言った。」
父  「こうや豆腐なんか頼んでないで。コカコーラ・ゼロって言ったで」
次男 「いや、こうや豆腐って言った」

 ・・・・・・・・・
妻 「誰、こうや豆腐買ったの」

 
| newlife | - | 07:27 | - | - |
ゲラ刷りチェック


 Renovation of the Heart(心の刷新を求めて)のゲラ刷り原稿が届いた。プロジェクトがスタートして約3年、約450頁のゲラ刷り原稿の重さにお二人の翻訳者と編集者の労苦の重さを感じた。読みやすい日本語訳に感激しつつ、先週から時間を見つけては原稿のチェックに没頭した。こんなに没頭して本を読んだのは久しぶりだった。翻訳者と編集者が何度も目を通したゲラ刷り原稿をチェックするのは、粗探しをしているような申し訳無さ半分と宝探しをしているような楽しさ半分といった感覚だ。今朝、やっと全ての原稿に目を通し終えた。この本との出会いが自分の牧会理念に大きな影響を与えたと改めて思った。三十代後半、牧会理念を明確にする過程における迷いの中で、「アウトリーチ(伝道)よりも、インリーチ(キリスト者の内的変革)こそが長期的には多くの人々に福音をもたらす」とのウィラードの考え方に心から同意した。そのことが決定的な分岐点になった。インリーチこそが長期的には最善のアウトリーチだと心から思う。
| newlife | - | 07:22 | - | - |
燃え尽きないために

 
月曜日、工藤先生が主宰されている牧会事例研究会に初めて参加した。参加者は工藤先生を除いて8名、お二人以外は初対面の方々だった。牧師という職をどのように受け止めるかが、牧師の精神面に多大な影響を及ぼすことを改めて思わされた。教師の約四割が燃え尽き症候群の予備軍とのデータを目にしたことがある。それでは、牧師の何割が燃え尽き症候群の予備軍なのか心配だ。

 先週の礼拝で「ふたりで遣わされることの大切さ」について預言者エリヤの生涯を通してメッセージした。エリヤが人生最後の日を迎えたときのことである。

”エリヤはエリシャに、「ここにとどまっていなさい。主が私をベテルに遣わされたから。」と言ったが、エリシャは言った。「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、彼らはベテルに下って行った。 ”(2列王記 2:2 )

 エリヤは「主が私をべテルに遣わされたから」とエリシャと一緒にべテルに行くことを拒んだ。エリヤは偉大な預言者であったが、孤高のひとでもあった。彼の人生には単独行動が目立つ。北イスラエルの悪王アハブのバアル礼拝を非難するときもひとりで出向いた。モーセでさえエジプトのパロ王に同胞の解放を求めるとき、ひとりではなく兄のアロンと一緒に行くことを望んだ。450人のバアルの預言者と対決したときも、彼はひとりだった。

”そこで、エリヤは民に向かって言った。「私ひとりが主の預言者として残っている。しかし、バアルの預言者は四百五十人だ。”(1列王記 18:22 )

 有名なカルメル山でのバアルの預言者との対決のとき、エリヤは「私ひとりが主の預言者として残っている」と語った。彼はイスラエルの命運を自分ひとりで背負っていると思い込んでいたのではないだろうか。バアルの預言者との戦いに勝利しても、イスラエルの民は偶像礼拝、バアル崇拝から離れることはなかった。エリヤは絶望し、北イスラエルを離れ、南ユダへと逃亡した。預言者にとって職場放棄は牧師にとって礼拝を放棄すること、医師が手術中に退室することに等しい。エリヤは若い者を残し、ひとり荒野を歩き続け、「もう十分です。私のいのちを取ってください」と死を願った。神様はエリヤに食物と休息を備えられた。神様は元気になったエリヤをホレブ山へと行くように命じられた。徒歩で一週間の距離を四十日四十夜をかけてゆっくりと旅をした。生き急いだ彼が神様と共に「今日を生きること」を学ぶ旅となったのではないだろうか。

 ホレブ山の洞穴で一夜を過ごしたエリヤに神様は「エリヤよ。ここで何をしているのか。」と声をかけられた。 その語りかけは職場放棄したことを責める言葉ではなく、「ひとり孤立した状態」に言及されたように思える。「なぜ、あなたはひとり孤立しているのか」と声をかけられたのではないだろうか。

”エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」” (1列王記 19:10 )

 エリヤが絶望し、死を願うほどに行き詰った理由は、「ただ私だけが残りました」との言葉からひとりで重荷を背負うことに疲れ果てたことにあったことが分かる。神様はエリヤひとりにイスラエルの命運を託されたのだろうか。

”しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」”(1列王記 19:18 )

 「ただ私だけが残りました」と嘆くエリヤに神様は「わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である」と語られた。神様の言葉はエリヤにとって慰めでもあり、遜らされる言葉であった。自分ひとりが神様に熱心に仕えてきたとの思いが他者を裁き、退けることになった。エリシャはエリヤに三度も退けられながらも、「私は決してあなたから離れません」と共にいることを誓った。神様は私たちひとりひとりにも、ふさわしい助け手、友を備えて下さる。私たちはふたり(複数)で遣わされるべきではないだろうか。

”もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。”(伝道 4:12 )
| newlife | - | 22:22 | - | - |
野菜たっぷりラーメン


 希望軒の野菜たっぷりラーメンにはまっている。日によってトッピングの野菜のボリュームが明らかに異なっているときがある。いつもより野菜が大盛りだとなかなか麺にたどり着かない。小さな幸せを感じる。これが中年の幸せなのか。

 
| newlife | - | 08:53 | - | - |
石をパンに変えることの虚しさ


”試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」 ”(マタイ 4:3)

 イエスが試みる者(悪魔)に誘惑された有名な箇所だ。試みる者は40日間の断食を終えたイエスに向かって、「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい」と命じた。試みる者には神の御子イエスにいかなることも命じる権威はない。それでも、お構いなしに命令している。強迫神経症という精神障害がある。神経症と診断されなくても、誰もが何らかの強迫観念を抱くことはあると思う。その一つが、試みる者がイエスに命じた言葉、「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい」に示唆されている。試みる者はイエスに神の御子であることを証明するために、石をパンに変えるようにと命じた。

”愛される価値があることを実証する責任が自分にあると、つねに説得しようとするこの世で、神に愛されている者として生きることです。”(p143 愛されている者の生活 ヘンリ・ナウエン)

 ナウエンの言葉通り、私たちは自分の価値を自分で証明する責任があるかのように生きているのではないだろうか。ナウエンは多くのひとは自分の価値を「良い働き」、「他者の評価」、「所有物(財産、家族、人間関係)」によって証明する術しか持たず、自分の価値が失われることを恐れながらサバイバルしていると指摘している。しかし、イエスはご自分が神の御子であることを証明する必要を全く覚えられなかった。それどころか、石をパンに変えることの虚しさを悟っておられた。イエスが石をパンに変えたところで、イエスが神の御子であることは証明されない。私たちの本当の価値も、良い働き、他者の評価、所有物によって証明されない。しかし、私たちは石をパンに変えることに人生を捧げていないだろうか。

”イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」 ”(マタイ 4:4)

  ひとはパンを必要としている。良い働き、他者の評価、所有物は必要なものだが、私たちを生かす力は神の言葉にある。イエスが試みる者から誘惑を受ける前、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。イエスが洗礼を受けられたとき、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」と天から声が聞こえた。イエスは神に愛されている者、神の喜びとされている者として生きることから離れることはなかった。それは、神に愛されている者、神の喜びとされている者こそがイエスの真のお姿だからだ。だからこそ、イエスは石をパンに変える、ご自分が神の御子であることを証明する必要性を覚えられなかったのだ。石をパンに変えたところで何が証明されるのだろうか。私たちも神に愛されている者、神の喜びとされている者として自分を受け入れるとき、たとえ、感情、実感が伴わなくても、事実として受け入れることによって自分の価値を証明する生き方から解放されることになる。

 自分の価値を証明することを強要されていると感じるとき、石をパンに変えることに自分の人生を捧げ、万が一にも石がパンに変わったとき、試みる者がなんと言うのか想像してみるといいと思う。「グット・ジョブ(お見事」」と失笑されるだけだろう。
| newlife | - | 20:53 | - | - |
2010年 初滑り


Untitled from nobutoyoda on Vimeo.



 三連休は休みが取れないので、8日の金曜日、始業式をスキップして小学生の二人の息子をスノボーに連れて行った。近場(自宅から約1時間半の距離)の奥伊吹スキー場に初めて行った。スキー場までの道が圧雪状態だったので少し緊張したが、数日前の大雪でゲレンデは最高のパウダー状態だった。平日だったのでとても空いていた。今回は小学2年生の三男にとって初リフト&滑降だったが、難なく滑っていた。子どものバランス感覚はすごい。六年生の次男は大人のボーダーに混じって調子良く滑っていた。

 ひとつの夢はカナダのウィスラーで家族全員で滑降すること。

 
| newlife | - | 21:27 | - | - |
主の山には備えがある 


 ”神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」”(創 22:2)

 アブラハムの人生にとって最大の試練の時が訪れた。神様がアブラハムとサラの老夫婦に「あなたがたを大いなる国民の父と母とする」との約束を与えられてから、サラは約束の子を宿すことなく20年の歳月が過ぎ去った。神様の約束の成就を忍耐して待ち望むことが求められた。しかし、今度は約束の成就である、ひとり子イサクを「全焼のいけにえ」として捧げることが求めれた。神様から約束の成就を受け取ることを忍耐して待ち望むことよりも、一度、神様から受け取った約束の成就を捧げることは信仰の本質が試される。

 ”ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。”(マタイ 25:24 )

 イエスの有名なタラントの譬え話だ。主人(神様)がしもべ(私たち)に能力に応じて五タラント、二タラント、一タラントを預けて旅に出かけた。主人はしもべを監視するのではなく、旅に出かけたのは自由を愛される神様らしい配慮のように思える。五タラント、二タラントを預かったしもべは資本を有効に活用して利益を上げたが、一タラントを預かったしもべは土の中に埋めてしまった。主人が旅から戻り、清算の時を持ったとき、五タラント、二タラントを預かったしもべは商売して利益を上げたことを報告し、「よくやった。良い忠実なしもべだ」と称賛を受けた。しかし、一タラントのしもべは、「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました」と商売しなかったのは主人が搾取するひどい方だと責任を転嫁した。

 アブラハムとサラはひとり子イサクに惜しみなく愛情の限りを注ぎ、大切に育ててきた。神様が約束の子を奇跡的にサラの胎に宿して下さったことには感謝の思いは尽きないけれども、その後、実際にイサクを育ててきたのは自分たちだとの思いがあったかも知れない。しかし、アブラハムは一タラントのしもべのように神様を「蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方」ではないことを悟っていた。次の朝早く、アブラハムはひとり子イサクと二人のしもべを連れてモリヤの地へと旅立った。

 信仰の歩みとは、どこまでも神様を信頼し、身を委ねることだ。

 ”イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」”(創世 22:7 )

 神様が示された山に向かう道中、イサクが父アブラハムに素朴な質問をした。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」アブラハムはイサクの質問を何を思ったのだろう。アブラハムの信仰がひとり子イサクに継承される大切な瞬間だったと思う。どのような信仰が継承されるかは、日々の聖書の学びを通してよりも、思いがけない瞬間の中で決まるのではないだろうか。アブラハムの信仰がイサクの素朴な質問によって試された。

 ”アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。”(創世 22:8)

 アブラハムは、「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」と回答した。アブラハムは答えに窮してだはなく、「全焼のいけにえ」を求められる神様は「全焼のいけにえ」をも備えて下さるお方であることを悟っていたからです。アブラハムは神様は蒔かない所から刈り取るひどい方ではなく、反対に、蒔かない所から刈り取らせて下さるお方、神様がいつも犠牲を払っていて下さることを悟っていたのです。

 私たちが神様に対する犠牲と思っているものも、実は神様が備えて下さったものに過ぎない。
| newlife | - | 07:52 | - | - |
休日


 年末年始は忙しかった。29日、午後、四男(弟)が新しく立ち上げた知的障害の方々の作業所&事務所を見学した。作業所とは思えない施設に驚いた。去年、勤めていた施設を退社し、数ヶ月でここまで立ち上げたことに正直感心した。彼は寄付金集めに忙しく走り回っている。その後、NewHopeのGrace(大学生、社会人の集まり)の感謝会に参加した。鍋を囲んでの交わり、ゲーム大会と楽しい一時を過ごした。30日は朝から年賀状の作成と印刷&大掃除に追われた。31日、メッセージの準備を始める。夕方、NewLifeのカウントダウンに参加。こちらも、去年同様、各家庭の自慢の鍋を囲んでの交わりだった。ダイナマイト(格闘技)を見るために一足早く帰る予定だったが、尽きない話があり、カウントダウンに参加することになった。新年をお祝いし、賛美&あいさつをして帰宅したのは午前一時前だった。正月は朝からメッセージの準備。夕方から妻の実家(京都)にお邪魔した。2日も朝からメッセージの準備。夕食は母の家で鍋を囲んだ。食後、ひとり席を立ち、帰宅し、週報を作成する。

 毎週の礼拝が生活のリズムとなっているので、年末年始も何も変わらない。

 昨日、次男、三男&従兄弟を映画に連れていった。今話題の映画「AVATOR」は3D映像が楽しめる。迫力のある映像が圧巻だった。
| newlife | - | 08:13 | - | - |
2009年 お世話になりました。


 皆様、旧年中は大変お世話になりました。歳を重ねるごとにお世話になっていることを実感するようになった。牧師になった頃、お世話しているとの意識が強く、いつも緊張していた。正月、妻の実家に帰省しても一時間ごとに自宅の留守電をチェックしなければ落ち着かなかった。携帯電話が留守電のチェックから解放してくれたと思っていたが、四六時中緊張しなくなったのは、お世話しているとの意識が薄らぎ、お世話されているとの意識(祈られている、気にかけてもらっている、心配してもらっている)が強くなったせいだろう。

”あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです”(1ペテロ 5:7)

 神様が私たちのことを心配してくださっていることへの実感が深まると、心の緊張が緩んでくる。緊張した心とは自意識過剰な状態であって、他者への思いやりを欠いてしまう。そのことに気づいてから、牧師の働きとはケアするひとの中で既に働いておられる神様の働きを当人に明らかにすることだと思うようになった。
 
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